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人々を「ねじれ」させるもの

「オリエント急行殺人事件」や、「そして誰もいなくなった」等、数々のヒット作を生み出したイギリスの推理作家、アガサ・クリスティが、自身の“最高傑作”と語った、「ねじれた家(Crooked House)」。

原作も未読、そもそもアガサ・クリスティの作品にさえも触れたことがなかったのですが、そんな謳い文句が気になり、映画を観に行ってきました。

率直な感想だと...

うーん、実に、惜しい。

と、言うのも。

映画ではミステリー作品として謳っておりますが、前回のブログで綴った「ヒトラーVS.ピカソ」と同じように、注目すべきところはそこではなかったのではないかな、と思ったからです。

それを、後半部分で一気にミステリー色にしてしまっていたのが、自分の中ではなんだかなぁ、と引っかかってしまいました。

しかし、(原作未読ではありますが)アガサ・クリスティ自身が最高傑作と呼ぶのも、納得、と感じるような見応えたっぷりの作品ではありました。

物語の構造としては、今の時代においてオーソドックスなスタイルのミステリーもの。個性的なキャラクターが次々と登場して、その中に殺人者がいる!といったような。

でも、この手のミステリー系って、もはや巧妙なトリックだったり、派手な展開だったりで楽しませるようには機能しにくいと思うのですね。私自身も、実際にそこを期待して観に行った訳ではないので。あくまで「ねじれた家」の人々がどのようにしてねじれていくのか、ということに関心を寄せておりました。

 ※以下、ネタバレ含みます

「ねじれた家」の人々は皆どこか奇妙で、貴族を象徴するお城のような洋館さえも不気味に感じます。廊下や階段、各々の部屋には絵画が飾ってあり、中には誰もが一度は観たことのある有名な絵画も出てきました。

しかし、個性的でまとまりのないキャラクター達の中で、とある共通点を見出しました。

それは、劇中の台詞にもあったように、「皆が規則や法律を越えた存在になったと思い込んでいる」ということ。

彼らは自らの愛や欲望に忠実なあまり、それに関する自己の行動を正当化することによって、物事の歪みを解消させようとしていたのではないでしょうか。

規則や法律を越えた位置に自らを置くことで、時には恐ろしい結果をも生み出してしまうのだ、という現在社会に生きる私たちへの示唆的な意味合いを強く感じました。

何よりも恐ろしいと感じたのは、それが絶対的悪、あからさまに利己的な愛や欲望である時よりも、一見、利他的であるような愛や正義を装っている時です。何故ならば、そのような装いに目を眩ませた人々の集団意識や、それに対する執着が恐ろしい結果をもたらすことがあるからです。

少なくとも本作について言えば、それこそが一家のCrooked(ねじれ)の正体だったのではないかと思います。そう考えるとあのラストは、心底ゾッとしますね。

しかし惜しい、と思ったのは、肝心な裏側、情念に纏わる背景的な部分の描写に欠けていたところです。ここがないと、本当に物語が薄く感じてしまう。キャラクターの内部に入り込めず、物語を物語、ただのフィクションとしてしか観れなくなってしまうのですね...

評価を見ると、原作はすごく良い!と語っている方が多くいるので、そういった細かい部分は原作で、という感じなのかなぁ。

それとも、やはり軸はミステリーであって人間ドラマではないということなのか。

しかし、何度も言いますが自らが最高傑作と呼ぶ作品であるということは、少なからずそういったただの娯楽としてのミステリーを書いた訳ではないのでは、と思ってしまいます。

愛というのは目に見えない、形而上的なものであるからこそ夢がある、と私はいつも感じていて。そういうものを求めるとき、愛そのものを追求したい訳ではなくて、ただ夢を見たいだけなんだろうな、って。積み木遊びのようにね。

また、それぞれの役者さんの表情、部屋のインテリア、衣装、踊り、等々。見どころがたくさんあって、最後の最後まで楽しめる映画でした☺︎

愛ってなんだ?を感じたので、次回は話題の「愛がなんだ」を観に行こうかなとおもいます。それでは( ﹡・ᴗ・ )b














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