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伊藤計劃『ハーモニー』私見②

②です。まだまだ書きたいことはたくさん…
ご清聴よろしくお願いします…!!


3、生きさせる権力とパノプティコン

「生きさせる」権力について、フランスの思想家、ミッシェル・フーコーが提唱した、生権力という概念がある。
生権力とは、古典的な権力である「殺す権力」とは異なり、人間の生に積極的に介入し、然るべきやり方で管理・運営しようとする現代的な権力のあり方である。

以前の古典的な君主的権力は、君主が生殺与奪の権を自由に行使する暴力的な権力であった。
しかし時代と共に、生きることそのものを掌握する権力へと変化してゆく。




 「神の授けし命という教義は、生命主義の健康社会では『公共物としての身体』となる。わたしたちの命は神の所有物から、みんなの所有物へとかたちを変えた。命を大切に、という言葉には、いまやあまりに沢山の意味がまとわりつきすぎているの」(伊藤計劃『ハーモニー』P.45.4)




公共物としての「身体」社会への貢献リソース意識。この世界において身体はもはや各個人のものではない。社会的資源であり、外からの監視を内に入れ込んだ物体なのである。


パノプティコンという監獄がある。日本語で「一望監視施設」と呼ばれる監獄施設である。独房は中央の監視塔の周りに円形に配置されており、中央に建てられた監視塔からは囚人が見えるが、囚人から監視係が見えることはない。


監視者の存在を常に感じることで、囚人は監視を内面化し、抑止作用が働く。フーコーは、精神が身体にもたらす規制権力をパノプティコンによって説明し人間は常に権力からのまなざしを意識し、権力を内面化することを述べた。

ミァハやトァン、キアンの自殺未遂は、
この権力構造から自力で逃げ出すための手段だったのである。




4.本物の「ハーモニー」とは

野蛮自然は、抗えない動物の摂理である。

外からの監視により内側の精神を制そうとしても、どこかで適応できず苦痛を味わい死を希求する者が出る。
学生時代に自死を選んだ彼女たちのように。

伊藤計劃『ハーモニー』



トァンやキアンと同様、ミァハもまた自殺を試みるも死に損なっていた

その後、彼女は科学者のもとで「ハーモニー・プログラム」の存在を知る。

「ハーモニー・プログラム」とは、「調和のとれた意志を人間の脳に設定することを目的とした(伊藤計劃『ハーモニー』P.260.5)」ものである。

調和の取れた意志は、全てを自明とする状態をもたらす。行動が自明に行われることは、選択の余地を与えないことであり、決断に伴う意志を消去するということである。

対立や摩擦による社会的ストレスをなくすため、完全な調和を実現するには、「意識」は余計な要素なのであった。


『ハーモニー』の結末では、WatchMeが入れられた人類の全ての意識が消滅し、ほぼ全ての争いもなくなり、ぼんやりとした幸福な世界で、恍惚だけを経験する世界、「ハーモニクス」が実現される。

人間は「幸福な社会」と引き換えに意識や感情を手放し、「わたし」は社会というシステムの一部となる。
人間は社会と自己が完全に一致した存在となって、ユートピアの臨海点を迎えてゆく。




 「自然が生み出した継ぎ接ぎの機能に過ぎない意識であることを、この身体の隅々まで徹底して駆逐して、骨の髄まで社会的な存在に変化したほうがいい。わたしがわたしであることを捨てたほうがいい。『わたし』とか意識とか、環境がその場しのぎで人類に与え得た機能は削除したほうがいい。そうすれば、ハーモニーを目指したこの社会に、本物のハーモニーが訪れる。(伊藤計劃『ハーモニー』P.343.10)」





このような意志/意識を否定的に捉える思考について、生に伴う苦痛からの解放に「全面的な意志の否定」を説くショーペンハウアーの哲学との類似を見出したい。

以降は、ショーペンハウアーの著書『自殺について』、『意志と表象としての世界』より、自殺と意志に関する考察を展開する。

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