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思い、届けられない時

誕生日なのですが、それに思う事は別の機会に書きます。
haruka nakamuraさんのアルバムはiTune storeで4〜5枚ポチりました。車の中で通勤時に聞いています。

このnoteとInstagram(Tertium pal fervere)を始めてみて、近くにいる人からもnote読んでますとか、InstagramのBook(Movie)レビュー読んでますとか、色々な方面からコメントや感想を頂く事があります。最近まで連合同窓会"学士会"の若手活動をやっていて、5万部ほど発行される会誌にエッセイを書いていましたが、コメントはあまりなかったので嬉しいです。
というよりも、自分の文章は長いのに・・・読んでくれてありがとう・・・"良いね!"とか"スキ"とかコメントをもらうのは嬉しいです。

去年のある時期からそうかもしれませんが、自分の内面に挑んでいると思います。しかし、そうすると書く文章が暗いものになります。あまりそうしたくはないのですが、実際に人と会って話をしていくうちに、似ている人が必ずいて、その人たちは暗い文章だろうが、意図を理解してくれるのでは思えるようになりました。

いじられキャラで気を使いすぎる性格のため、私は他人に合わせる事が非常に多いです。だからこそ、仕事では信頼されるようになるし、仕事外でも相談されたり、友達が増えたりするのだと思います。その反面、逆に相談がしにくく、してもうまく理解してもらえず、そもそも自分の内面が理解されないという事が起こります。他人に合わせるため、相手は自身の理解の中でしか私がイメージできないので、齟齬が生じてしまうのだと思います。お互いが繊細な人とかなら良いですが、人間性として"陰"と"陽"に分かれるなら、"陽"が"陰"を理解するのは難しいでしょう。

ある人がこう書いていました。

悩んでいるのなら、悩んでいると言えば良いじゃないか。
悩んでいる事を話せば良いじゃないか。

この人は、目の前の悩んでいる人を大切にしているのでしょう。
私も意見は同意です。
でも、相手を間違えると、その悩んでいる人は傷になるようなダメージを負います。この感覚は私だけかもしれませんが、相手が大切な人であるほど、傷つかないように、悩んでいる事や心の底に秘めている事を言えなくなります。もし、受け入れられなかったら・・・っと思うと、言葉にせずに思いを認めない方が、心に傷は負わないだろう。蓋をして、過ぎ去って忘れるのを待とうっと思うのです。

人間は、自分の言葉に縛られる。
これはある種の真理ですね。

まさに、この前レビューで書いた、映画"海でのはなし。"の博士ですね。


ここを乗り越えるのは、繊細な人ほど難しいのか?
それとも言えない事が特定のトラウマとかコンプレックス的なものか?
解決は個人次第でもあり、内容によります。
そもそも、私も自分が良くわかりません。

もしかすると、今までは自分をうまく騙せていて、途中から騙せなくなったのかもしれません。我慢ができなくなって、蓋をし続ける事ができなくなったのかもしれません。noteに投稿する頻度が少しずつ増えていますが、もしかすると心の整理に使えているかもしれません。
このところ、人と話す中で、お互いの内面をシェアできる人が増えてきました。20代の若い友人も含めて、「年齢を超えて悩むって歳関係ないね(笑)」って言えるようになりました。
どこまでそれができるかわかりませんが、それ通じてうまく整理を進めてみようと思います。これは誕生日関係なく、私は内面に浮かび上がるタイミングで考えています。なので、もうメモリアルは関係なくなっているのだと思います。

自分がそれを大切に思える時、それが記念日です。

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