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適応障害を繰り返さないようにしたいので

社会という世間から離れて、もうすぐ3年が経ちます。最近、再就職を少しずつ視界に入れながら街を歩くようになって、困ったことが増えました。いや、増えたというより、考えないようにしていたことに向き合い始めたってだけなんですけどね。

さかのぼれば、心療内科にかかってから7年になりますが、本腰を入れてやってなかったことがあります。それは、自分に向き合うことです。

なぜ私は適応障害になったのか。これから先、同じことを繰り返さないようにするには、どうしたらいいのか。しっかり自分の中の答えが出ていて、納得していて、実践できているのだろうか、疑問が出てきたのです。

以前、別の病院にかかっていたときにカウンセリングを受けました。過剰適応していることに気がついたし、思考の癖があることがわかりました。自分の本音も見えたし、なりたい自分も見えた(過去記事。)そして、対策を考えてみたりもしたのです(過去記事。)

でも、わかったというのは「頭」ではわかったというだけで、心と体がまだ何かに引っかかってるんじゃないかなと。というのも、最近いろいろなことにチャレンジし始めて、イヤな記憶が呼び起こされて体調を崩すのはもちろん、生活のあらゆる場面で過剰適応が顔をのぞかせていることに気がつくんです。どうしたらいいもんかと考えていると、夢にうなされるようにもなってきまして…

これはいけない傾向だな。前に納得したと思っていた過剰適応の原因はもしかしたら独りよがりで、向いている方向が違うのかな。独りよがりは失敗のもと。このままで私は大丈夫なのだろうかと不安や焦りが出てきました。

あぁ、私の中のモヤモヤ。解決してあげたいな。でも、私ひとりで考えるのはこれが限界だ。人に助けてもらおう。そう思い、再度カウンセリングを受けはじめました。

カウンセラーさんにポツポツと話をしていくと感じるのは、私は私のことが、よくわからないんだなってこと。私が思う私像、つまり… 考えて、行動して、感じたという経験には、本来の私は結構な頻度で隠れてしまっているのではと感じるんです。

言葉にするには難しいのですが「私はこういう人間である」と当たり前に納得している私という人間像が、無理やりを重ね続けた結果できあがった虚像で、本来の私は実はいつもいつも我慢していたのかもしれないって。適応障害になった原因の単体の出来事だけに本音をすごく我慢していたのではなく。もっともっともーっと前から。子どものころから?

環境に過剰に適応できてしまう部分を、平野啓一郎さんの言うところの「分人」と考えてもいいとは思うのです。だとすると殺されてしまったゴッホが私にもいて、感じたくない、認めたくない、弱い情けないみっともないしょうもない本来の私が、私の中にいるんじゃないか。いつから?

それなら、その私を迎えにいってあげたいな。もう我慢しなくていいよって言ってあげたい。そうすれば、過剰さが和らぐのではないかと思ったりするんです。いやまだどこにいるのかもわからんけど。

自覚している限り(つまり「頭」)では、私はとても恵まれた環境で生きてきたと思うし、トラウマになるような記憶はないはずなのです。そうであっても、これから掘り下げる部分は苦しさが伴うかもしれないとは、カウンセラーさんに最初に言われました。その覚悟はしたので、焦らず慎重にカウンセリングを進めていこうかなと思います。心と体も癒したい。まだ私は私の迷子なう。