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今日の学び:思い込みが理想世界でもある

「いつかきっと…」と一度や二度はそういった希望を持ったことは誰でもあるはずだ。
心地良さに満たされた理想世界を想像するそのネタ元は、映画やテレビ、漫画や小説の中から生まれたものだが自然発生することはないだろう。

人は比較によって現実世界をとらえようとするからだ。男を意識するのは女がいてこそだ。不幸は幸福によって測られる。現実は理想と比較しながら把握する。

「こうでなければならない!」といった世界観は、個人的な理想世界であるが現実とはズレるものだ。主観と客観を比較してしまうからだ。


先日、本の整理をしていたら、「真理の哲学」という本が出てきた。著者は貫成人となっている。

その中に『眺望固定病』という言葉を見つけた。
「真理」や「価値」が形成される構造やメカニズムの分析のことを超越論的パースペクティズムと呼ぶらしい。

それに対するのは、「経験的パースペクティズム(眺望固定病)と呼ぶ。
それは、特定の視点からの眺望(ながめ」を絶対化し、それを真実と思い込んでしまう。ある種、病的状態だというのだ。

ぼくは苦悩の始まりは思い込みと期待であると考えているが。その言葉の中にも同じ意味を含んでいると感じた。

思い込みや期待から生まれる「これはこうだ!」という意見の多くの反応は「…」になる。
理解できないのではなく、個人の印象や思い込み、空論だと感じるからだ。

先日も「病気の原因は酸素不足だ!」と断言する話を聞いた。「…」。
その話から、どんな病因をどれだけうまく説明できるだろう。また、解決策は酸素吸入になるのだろうか。

この病的な思い込みは、メンタルの不調や自律神経の不調を生むことがわかっている。

思い込みは病的な状態になりがちだ。
理想世界への妄想や願望が強過ぎると、そう考えることは悪いことではないのだが、現実を無視しただけの世界を構築しているだけのものになる。

全ての人が平和で争いのない世界を理想とすると、生物の本質である「生存と保存」を取り除くことになりはしないだろうか。
そうなると「無」に向かうことになるだろう。

矛盾によって、在るものが無いものになるかもしれない。世界が成り立つには条件がいるように思える。

理想世界には条件がないように思う。
平和な世界は闘争という条件の果てにあるから平和なのではないだろうか。

平和が自然発生するならいいが、想像できるだろうか。複雑なものが自然に単一になるかどうかということだ。

こう述べることも間違いではないのか、といつも警戒している。
思考は固定してはならない。どこか必ず何かが抜け落ちているものだ。

今日の勉強は難しいようで易しい。思い込みはないか自分に問うだけでいいからだ。