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解かりたい脳だから

解らないものに出会うと“恐れ”を抱く。

恐れを抱くから、それを“排除”しようとする。
 

排除するとひと安心。

はたしてそこに“人権の尊重”はあるのか?

Instagramのストーリーをあげようとしたときにふと思ったこと。
私は植物とか、グラデーションの空とか、綺麗な建物とかを見るのが好きだから見つけるとどうも気持ちが盛り上がってバシャバシャ写真撮っちゃう。

そのときあげようとした写真がこれ

(横になっちゃった…)

たぶん、

「なにこれ?」
「どこ?」
「誰かとここにいるってこと?」
「どういうこと?」


って思う人が多いのかな?って思った。

そのときに考えたこと。

「いつも“こういう系”載せてるよね」(冷笑)

というリアクションされることってたぶん多々ある。
色んな感性の人がいるから
もっと“なんじゃこりゃ!?”ってもの載せる人もいる。

いや、良いのよ
このリアクションがダメとかじゃなくて

問題は、(冷笑)ってとこ

そんなリアクションの裏に隠れている感情ってどんなもんかな?って想像したのよ、

“自分と違う”こと、
一般的とされている“基準からややそれている”物に対しての抵抗感からきてないかな?って。

それって人間の歴史の中で繰り返されてきた
“差別”の感情と似てる。

その小さい“違い”を見つけては無意識のうちに遠ざけたり排除したりして、
違い(恐れ)がチリも積もって山になっちゃうのかもなって思ったりしている。

そうだとしたら、
“恐れ”という感情は人間の自己防衛本能であって、それを無理に感じないようにするなんて出来ないわけで…

てことは、生きるために違い(恐れ)を排除して、
己が生きるために差別しているってこと??
(それは言い過ぎかな…)

できることならやっぱり、みんな仲良く調和して、
“共に”生きていきたいじゃない?

人間として生きている以上、
人間同士の触れ合いとか繋がりって生物学的にも絶対必要だしね。

だからまずは、

“違い”への捉え方を変えてみたら良いんじゃないかな?

違って当たり前ですし…
恐れの感情も当たり前ですし…

わざわざ“私はあんたたちと違うのよ!”ってしなくて良いんじゃないかと。

そもそもみんな違うのは大前提の世界に生きてるわけなんだからあえて言わなくていいよね!
違いをそれぞれが当たり前のように大前提として受け止めていれば良いことよね!

きっと、散々いってる“恐れ”は無意識の中で感じている感情だから操作するのは簡単じゃないのかもしれない。
だけど、そういう自分もいるってことを知っておくだけで見え方ってものすごく変わってくると思う。

もちろん、“良い差別”っていうのもあると思う。
差別というより、単純に“選択”
自分の肯定的な感情のなかで意図的に選んだものならばどんどんしていくべきだとも思います。

○どんなものにも二面性がある。


だから、その両方を、さらにはもっと色んな角度から物事を捉えてしっかりとした意図をもって行動していきたいと思う今日この頃…

『私』という人間は、
日常の中でふとしたときに“ブワァーーーー”ってこういうこと考えはじめてしまう性質だから、適度にアウトプットしないと脳内爆発しちゃうと思う。

少し前までは内言で満足してたし、生活に支障は無かったんだけど最近はもうだめね

考え事しだすと止まらないから、
作業一旦ストップしたくなっちゃう。

だからその場でキーワードだけ“サクッ”とメモメモ…

あとからこうやってnoteに向き合って記録しています。
もしくはもっともっと分析するために本当のノートに思いつくまま書き出します。

一通り書いたら、赤で要点を…
重要なポイントや、きちっと言語化出来ているところにはマーカー…

という具合で時間も忘れて没頭しています。

脳ミソ汗かいてる

脳ミソ常夏

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