【ナショナル・レヴュー】ポリティカル・コレクトネス文化: ダグラス・マレーのインタヴュー: ジェンダー、人種、アイデンティティ(1)

2019年10月1日
イギリスの作家・ジャーナリストが彼の新しい本のテーマについて議論している

ダグラス・マレーは作家であり、ジャーナリストであり、イギリスを拠点とするNational Review Instituteのフェローである。彼の本『西洋の自死: 移民、アイデンティティ、イスラム』はロンドンのSunday Timesのベストセラー・リストに20週間もとどまりつづけ、ノンフィクション分野のナンバーワン・ベストセラーとなった。それは続けて20ヵ国以上の国々で出版され、世界中の政治家によって読まれ、また引用されている。定期的にNational Reviewに寄稿をしているだけでなく、マレーは、The Spectatorの共同編集者でもあり、またThe Wall Street Journal、The Times、ロンドンのThe Sunday times、The Sun、The Telegraph、The New Criterionを含む、その他の媒体でも頻繁に執筆をしている。

最新の本である『群衆の狂気: ジェンダー、人種、アイデンティティ(The Madness of Crowds)』——今月に出版された——において、彼は、セクシュアリティ、テクノロジー、人種という、21世紀においてもっとも論争を巻き起こしている問題について扱っている。ここに掲載されるのは、Madeleine Keaneとの議論を文字起こししたものである。

Madeleone Kearns: ダグラス、まずは照れもこめまして、あなたをインタヴューできるのは非常に光栄だと、はっきりと言っておきたいと思います。私はあなたの前作である『西洋の自死』の大ファンでした——私がニューヨーク大学で設立した非順応主義者の秘密の読書会のメンバーと同じように、です。そして、あなたの新しい本である『群衆の狂気』もまた、同じく興味をそそられるものです。だからこそありがとう、そして出版おめでとうございます。というのも、それは本当に重要で、何処までも読みやすく、そして素晴らしい作品なわけですから。

Douglas Murray: ありがとう(紅茶をいれつつ笑いながら)!

MK: では、まずははじめに、それを読んだことがないであろうリスナーのために、私がその骨子だと思うところを、手早く要約してみようと思います。インディー・ジョーンズ風のやり方で、ダグラスの本は、現代の政治の地雷原を慎重につま先で歩いていっています。しかしながら、彼はそれをすばやく避けているだけではありません。彼は巧妙にその時限装置を解除していっているのです。というのもそれらはまさに、いま現在、善いものや真なるものや美しいものを破壊するべくカウントダウンを進めている時限爆弾なのですから。

章を追うごとにあなたが動作を停止させているのは、「ゲイ」や「女性」や「人種」や「トランス」という時限爆弾です。これから私たちはそのすべてをちょっとだけ取り扱うことになりますが、まず、あなたが序文で使っている目の前にある地雷原のメタファーについて、ちょっと説明していただけますか。もしかしたら、それを台無しにしていないかが心配なのです。

DM: いいですよ。まず私が興味をもったのは、私たちが誰でも知っているし、知りたいと思っている、にもかかわらず公共の場では話さないような、そういう主題なのです。その主題を人々はプライベートな場でだけ議論をしますし、そのときでさえもしばしば、かなり慎重にそうします。移民などなどについての前著において、はっきりわかったのは、それももまた人々がいつだって憂慮するような話題の一つのであるということです。しかしながら、ここ数年で私にとって明確になってきたのは、他にもそういった話題があるということです。そしてとりわけ、人々のキャリアがそれによって破壊されてしまうような、そういった話題が、とりわけ存在しているのです。何かあなたが口にしてはいけない特別なことがあるというのではなく、もしあなたが、数多くの問題について思っていることを、ほとんど堂々と語りながら闊歩すれば、そうなるということです——ゲイに関わるすべてのことや、女性であることに関わるすべてのこと(特に両性間の関係)や、人種に関わるすべてのことや、トランスに関わるすべてのことなどです。

そして私がこの本にとりかかって、それについて考えをめぐらし、どうにかしてそれを言葉にしてみようとしていたときに、私は一人の友人と話したのです。彼は、ほとんどのキャリアをイギリス軍で過ごしていたのですが、彼が私にイギリス軍のもっている地雷除去装置について話してくれました。アメリカの軍隊もそれをもっているのです。ただイギリス版ではそれは、The Great Viperと呼ばれています。これは——それはYou Tubeでも何でも見ることができますが——こういった装置です。すなわち、まず軍隊はそれをトラックの後ろでひいて地雷原の隅へと引き摺っていきます。そして、この大きなロケットを発射するのですが、このロケットの後ろには長い尻尾のようなものがついていて、それがロケットの後ろに伸びて広がっていて、いわば爆発物が詰まったホースのようになっています。それが地雷原の全体を横切っていくわけです、そうすると一度それが通ったところでは、すべては一気に爆発するというわけです。

そしてこれ、この装置はもちろん地雷原を完全に除去することはできないのですが、しかし、他の人々がその後についてくるために、より安全な道を開くことができるのです。元軍人の友人がこのことを語ってくれたとき、私は即座にこう言いました。「ああ、それが私のやりたいことだよ」。というのも、私は、私が取り組んでいるどんな主題についても、自分が究極の答えをもっているとは決して言いたくないのです。私はただ、それらがすべて本当に、本当に興味深いと思っているだけです。私たちが考えたり、大声で言ってもいいことといけないことの輪郭を描くことは、本当に魅力的なことです。だからこそ、そういったことのそれぞれについて、私たちが語りあったり、知りたがったりしないような題材だと私が考えるものに取り組んできたのです。そしてまた、それを究明し、またそれについて語ろうともしたのです。すでに言ったように、その目的は、他の人々がその後に、少しでもより安全に、それを考えることができるように、ということです。

MK: さまざまな論点に進んでいきたいのですが、最初にもう一つ、あなたに尋ねたいのはフーコーについてのことで、彼はあなたの本にたくさん出てきますね。私が感謝しているのは、あなたが彼をわかりやすくしてくれたからで、というのも、私はフーコーを読むたびに「わあ、この人はなんて長い文章を書くのだろう」と思っていたのです。彼は実際にとても洗練された書き手ではありますが、ただ絶望的なほどにわかりにくいのです。そしてにもかかわらず、様々な点において、彼は生みの父、私たちが考えようとしている思想の哲学的な父でもあるのです。ですので、よければちょっと私たちを助けるつもりで、いったいフーコーが何者で、彼が何をしたのかについて、説明してもらえますでしょうか。

DM: ええ。これらの多くの物事のうちでも、私が興味をもっているのは、その深層にある思想的基盤はどのようなものか、哲学的な前提や、あるいはそれはしばしば政治的前提にもつながるのですが、そういったものも含めて、私たちの前提はどのようなものか、ということを追跡することです。だからこそ、この本における私の戦術としては——前の本と同じように——形而上学や哲学からはじめて、それらを通して、ポップ・カルチャーに至るまで、すべてのことに目を向けようということです。そして、どこでもいつでも不意に登場し続けた名前の一つが、フーコーなのです。私が思うに、驚きであったのは、もちろん——彼が基本的に今日の学問の世界で最も引用される思想家であるということです。そして引用という点について言えば、私の考えでは、学術論文でなおも、アインシュタインの4倍は引用されていると思います。

それは部分的には彼の学際的な研究のおかげだと思います。人々はフーコーを分野横断的に引用しますが、それがそのための大きな利点になっているのです。しかし私はこれまで彼についてそれほど真剣に受け止めていませんでした。いくつかの断片をちょっと読んだことはありましたが、脇によけておいたのです。この本について取り組んでいるときも、私は自分が関心のある動向に影響を与えた基本的な文献やその他の人々を読まなくてはいけないと思っていたのです。そうして、戻ってきてフーコーを真面目に読んでみたら、自分が予想していたよりも遥かにひどいもので、絶句してしまいました。もちろん、もっとも印象的なことについては、あなたもその魅力がおわかりになるでしょう。彼は恐るべき爆薬の投げ手(花火師)なのです。そして彼は明らかに、あらゆる種類の方法や参照範囲という点で、信じられないほどはっきりした精神をもっていたのです。

残念なことに、彼が、とりわけ『性の歴史』において、人生に対して与えた見方というのは、異常なほどに倒錯したものです。私が興味をもったのは、権力や権力の重要性についての彼の執着です。これは私が本を読むときのいつもの習慣なのですが、何か特別なことがあったときには、線を引いたり、メモを取ったりするのです。そして私が気づいたのは、私が権力というポイントで何度も立ち止まらなければならなかったことです、というのも、ほとんど全部のページが、すべての行における線引きによって覆いつくされていたからです。そして、もちろん、私の理解したところでは、このような人生についての解釈は、絶対的に重要なものなのです。それは社会正義のための運動やインターセクショナリティ論者などの人々にとって絶対的に重要なものなのです。というのは、それこそが、大部分において、世界の解釈全体となっているわけですから。

あらゆることは権力に関係している。政治における権力、個人的関係における権力、性における権力、知における権力というわけです。そしてこれは、当たり前ではありますが、私が言っているように、あらゆるすべての実際上の人間関係についての倒錯した見方なのです。そして、私が述べているのは、思うに、このような倒錯した見方が、彼をちょっとしか読んだこともない人までも含めて、信じられないほどに根深く受けいれられているのです。権力というレンズを通して人生の全体を解釈するということが、です。それが多くのことのうちで、フーコーについて私に最も印象に残ったことのひとつです。また——多くの他のことの中でも——そうですね、彼はとても強い印象を残してきました。しばしばひとが言うように、「明らかに間違っている一つの思想が、どうしてこれほどまで効果的に文化の全体にまき散らかされえたのか、それを解明しなければならない、というのはとても難しいことではないでしょうか。そしてもちろん、それはその文化が初めからなぜそんなことに取りかかろうとしたのかを理解するということでもあるのですが」。しかし、いずれにしても、これはまた別の問題かもしれませんね。

MK: あなたが「ゲイ」や「トランス」を扱っていた章においてなさっていたことが、ここで役に立つのではないかと思います。そこであなたは、ハードウェアとソフトウェアのというメタファーを提示していました。

それが興味深いと思った理由は、私がその問題をずっと理解しようとし続けていたからです。たとえばトランスについてですが、あなたはそれに対して、そのあらゆる機微についてまで、かなり注意を払っています。しかしながら、ハードウェアへのこだわり、その点についてのあなたの考え方が私にとっては非常に興味深いもので、私の見るところでは、それは基本的には、すべてのことは科学的に証明可能でなければならない、真実であるためにはそうでなければならない、というものだったように思います。たとえば、私が念頭においているのは、「少年の身体をもった女性の脳」というような類型なのです。私は何度も科学者や神経生理学者や精神科医と話してきたのですが、それはメタファー以上の何ものでもないと私には思えるのです。

そしてよりはっきりとしたメタファーは、魂というメタファーでしょう。ジェンダー的な魂というものです。そして実際には、宗教的な用語でいえば、このような考え方は、人々がすべての物質的なものは悪であり、精神こそが優位であると考えた、古代のグノーシス的な異端にまで遡るものです。そして、あなたが大いに切り込んでいっているのは、このような新しいイデオロギーのもつある種の宗教的な本性です。そう、ちょうど人種についての章に、白人であることの原罪があらわれてきますね——かつて黒人であったことが原罪であったように。いまは白人であることが罪であるというわけです。この種の宗教的な要素というのは、どこから来て、どこへ向かっているのだとあなたはお考えですか。

DM: まず順序を追ってお話をしますと、このハードウェア/ソフトウェアという発想は、この問題にフレームを与えて理解するのに、役に立つと思います。というのも、私が述べているように、ホモセクシャリティについての不鮮明なところは、いつもそれが選択であるとされるところだからです。とりわけ宗教的な人々たちは、それはライフスタイルの選択であると言うでしょう。そして、そこには明らかに真実でないことが含まれています。つまり、それが選択であり、多くの人々にとって、そこまで困難なものであるならば、なぜ彼らはそれを選ぶというのでしょう。

そして段々と人々は、それがライフスタイルの選択であるというのは厳密ではないということに気づき始めています。私の見方では、ゲイの権利についてのキャンペーンをする人々は、このことがわかっていて、だからこそ、ライフスタイルの選択を出発点として、それをレディ・ガガ風にいえば「こうやって生まれた(born this way)」と区別するために、それを過剰に強調したのです。かなりの部分においてホモセクシュアリティはソフトウェアではなくハードウェアであると、折よく私は考えていましたから、このことは理解できる、とてもよく理解できるのです。しかし、すべてはハードウェアの要求であるというこの主張は、少し重々しすぎる嫌いがあったのでしょう。ただ実際には、私の本がちょうど印刷業者に出たときに出版されたホモセクシャリティについての膨大な研究があるのですが、私はそれについての章について語ったことの正しさを完全に証明してくれていることを嬉しく思っているのです。それによれば、唯一の原因というものもなければ、ゲイの遺伝子などというものもない。しかしながら、誰かに対してそのような考えを抱かせるようなある遺伝的な側面が、確実に存在している。そしてさらにまたいくつかの環境的要因などなどがある、というわけです。

しかし、いずれにしても重要な点は人々がそれを学ぶことであり、それがゲイの権利運動にも起こったことなのです。また他の権利運動もそれを学んでいて、私が言っているように、それこそがトランスの運動が、それが絶対的にハードウェア上の問題であると主張しようとしている理由でもあるのです。しかし、もしそれがそうであるならば、いうなれば重要な点はこうでしょう——彼らがまさに障害者であると言いたいわけではないですが、しかしあなたもご存じのように、人々が障害者をいじめたりからかったりしない理由の一つは、彼らが自分で選んで障害を得たわけではないということです。どうしてそんなことをする理由があるでしょうか。

ですから、もし自分がハードウェア上の問題を持っているとあなたがおっしゃるのであれば、その人は、そのカテゴリーへとなってしまったということになるのです。それに対して、ソフトウェアというのは選択です。それは、アルコールやドラックの中毒者が、ハードウェアによる説明を常に希望する場合と同じことのように思います、それでなければ、それはソフトウェアの問題になってしまいますから。これらの事柄を同じカテゴリーで扱うわけではないですが、それを理解するためには役に立つのではないかと思います。というのも、なぜ私たちの時代は、これほどまでにこの問題について取り憑かれているのかを解明するために試行錯誤しているうちに気づいたことの一つとして、こういうことがあるからです。すなわち、バークレーのジュディス・バトラーのようなジェンダー理論家の本を読んでいて突然私にひらめいたのは、これらのハードウェアとソフトウェアの二つのプログラムを同時に進行しようとしているということです。一方だけであればできますが、両方同時にというのは無理なのです。

一つのありうるプログラムは、ゲイはハードウェアであり、トランスはソフトウェアであるというものです。しかしながら、それは「女性であることもソフトウェア上の選択である」ということとは、同時に両立はしません。女性であることがソフトウェアであるためには、トランスであることがハードウェアでなければならないのです(※訳者注 少しわかりにくいが、ハードウェア的に女性であるという事実をなくしてしまえば、そもそも身体が女性であるが精神は男性であるというソフトウェア上の命題の意味もまた成立しなくなる、というような事態を指していると思われる。逆に女性であることが実際上のソフトウェア上の選択の問題となるためには、トランスであることが今度はハードウェアでななければならない、ということにもなるだろう。それゆえにトランスであることも女性であることも、選択可能なソフトウェアであるという主張は、背理を抱えているということになる)トランスの人々は離れては、誰も自分のジェンダーを実際に認めることができないというわけですね(笑)ですので、いずれにしてもこれは、とても役に立つカテゴリー区分だと思いますし、他の人々にとっても有益であるといいなと思っています。

ただ宗教的な側面についていえば、そうですね、それはある意味ではまさに、前の本において私が詳細に取り扱ったものかもしれません。そして私が言っているのは、宗教的な物語までも含めて、すべての大きな物語がなくなった後でも、人類としてひとは同じような強い欲求をもつということです。その構造やサブ構造はいまはもう存在しないですが、しかしながらそのような欲求はなおもそこにあるのです。それこそが私が、それがこれまで受け止められてきたよりもずっと真剣に、社会-正義運動のことを人々が受け止めるようになったと言う理由なのです。というのは、そのような運動は、世界についてや、世界の目的がどうあるべきか、世界のうちでどのような行動がなされるべきかということについて、全体的に解釈しようという試みだからです。そして、それによって宗教性の代替をしようという繰り返される試みが存在してきました。冷戦の終結以来、こういったものは、おそらくはまったく新しい世界観に匹敵するような、最も重要で真剣な試みであったと言えます。そしてご存じのように、人々が最近になって挑戦しようとしている別の事柄があります。明らかにそれは環境運動であり、それは、全体的な意味を発見したり、罪を和らげたりしようなどと試みる点で、多くの同じような特徴を有しているのです。

(1)終わり 続く

https://www.nationalreview.com/2019/10/douglas-murray-book-the-madness-of-crowds-gender-race-and-identity/

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?