【ナショナル・レヴュー】ポリティカル・コレクトネス文化: ダグラス・マレーのインタヴュー: ジェンダー、人種、アイデンティティ(3・終)

MK: 女性として、あるいは何らかのこういった犠牲者であることを主張できる人間であることは(私はそれを望みませんし、それを使おうとは思いません。そんな風に考えるのはひねくれていると思いますから)、時に非常に混乱させるものです。ここで私はひとつの例のことを考えているのですが、私は以前にあるトランスの女性に議論をしました——私がこういうことを言えるのは、ダグラス、私はいま、まさにアメリカに住んでいて、私たちに言論の自由条項があるからなのですが——私が思うに、トランス女性というのは、外見を女性のようにしている男性なのです。そして確かに、そのようにするためにもっともな理由をもっている人もいます。私は、彼女たちが幸せであってほしいと思いますし、私は喜んで彼女たちに対して丁寧で礼儀正しく振る舞ったり、また彼女らが望むように呼んであげたいと思っています。けれどもやはり、私はこう思うのですし、それ以外のように考える理由はないのです。

ところで、このトランスの女性は私のことを冷笑しながら、あなたはただの若い女性なんだから何も知らないでしょう、こういったわけです。私がそこでちょうど語っていた論点は、子供というのはまだ自分が何ものであるかをわかっていない、というものでした。私が言いたかったのは、子供は自分が朝食に何を望んでいるかさえわからないのだということです。そしてついでながら言うと、私は、住みこみベビーシッター(ナニー)として働いていたことがあるので、これがわかっていました。そうしたら、このトランスの女性はこういうのです。「いやいや、私たちはいまナニーについて話しているのではないわ」。私は心の中でこう自問し続けました、これは非常に性差別的な発言ではないだろうか、と。人生の最初の40年間をヘテロセクシュアルな男性として生きたあなた(このことを私は調べたから知っていたのですが)が、一体何をわかっているというのでしょうか。しかも私たちはみな、その事実がなかったことであるかのような振りをするべきだというのです。

DM: もちろん、ある日に公開の討論会に参加したKatheleen Stockや別の女性に起こった出来事をあなたもご覧になったでしょう。その建物は、窓を叩き続けるトランスの活動家たちに囲まれることになりました。ところで他のどんな状況であれば女性が、警察に監視さらながら、男性に生まれた人々の群衆によって脅迫されるということが許されるのでしょうか。

思うに、どこであってもそんなことは許されないでしょう。ところで、ここで一つの——このことはハードウェア/ソフトウェアの問題に戻ることになりますし、これこそが、このカテゴリーが魅力的である理由なのですが、というのも、それによって、もし基礎構造を見つめるならばうまくいかないようなことを私たちがやろうとするときには、警告音がなるからです。私がここで出した例は、人々は生まれながらにしてトランスではあるが、生まれながらにして女性ではないというものでした。別の例だってあります。もし人種転換が性別転換とまったく同じ議論であるとすれば、なぜ人種転換は上手くいかず、性別転換は上手くいくということになるのでしょうか。

そして——これは視聴者のためにいっているのですが——私がここで言及しようとしているのは、白人の黒人活動家、全米黒人地位向上協会のRachel Dolezal(※訳者注 彼女は白人にもかかわらず黒人であると人種的出自を偽っていたことが発覚し、協会の支部長を辞任させられたが、自分は幼少期から自分を黒人として自認していたと述べた)です——彼女は別のケースによるよい例であり、ここでフーコーをまた参照するのもよいかもしれません。この種のたくさんの新しい形而上学がゴールデンタイムで生まれ続けているのですから。アメリカのThe Viewにおいて、何年か前に、Rachel Dolezalが、主として黒人系とヒスパニック系の女性の討論者に囲まれているのを見ました。しかし彼女たちはそれを欲しなかったのです。そして誰もDolezalがそこでうまくやれるとは考えていませんでした。彼女たちはただこう言ったのです。いいかしら、あなたが黒人であることを私たちは許さないわ。なぜならあなたは黒人女性として生きた経験がないのだから。

ここで私たちは、そのような経験とはどのようなものであり、なぜそれが黒人女性にだけ特有のものなのか議論できるかもしれません、もしそのようなものがあるとすればですが。しかしながら、そんなことをすることは絶対的に赤信号なのです。ただノー、あなたはお呼びではないわ、ありがとう、というわけです。しかしながら、このことは、あなたもご存じのように、このことはまさに、まさに第二波フェミニストがトランスの人々に言ってきたことであり、彼らは無視されてきたのです。ところで、なぜ黒人の女性が、あなたは黒人の女性として生きていない、なぜならあなたは黒人ではないからというのは問題がなく、今度は女性が、あなたは女性として生きてはいない、なぜならあなたは女性ではないから、というのは問題なのでしょうか。だから、こういった事態がなぜ生じるのか、というのは非常に興味深い問いです。

MK: あなたは何かそれに対する答えをお持ちですか。

DM: 私の直観によれば、それはアメリカに特有の人種の歴史に関係していて、あとはありうるとすれば、そうですね、私は自分の本でHypatia誌における議論も詳しく扱っていますが、思うにそこで私が描いているのは、ある種の過剰な矯正のことです。私が言っているのは、ゲイが平等な存在から、さらに優れた何かになってしまったり、すべての場合ではないですが、いくつかの場合においては、ゲイの方が優れているということになる、また女性はまさに男性と平等であり、しかも不思議なことに優越していると…。

MK: そのことについては実は私も支持していますよ。いや違います。そうではありません。私は平等であるという前半の部分は受けいれません。男性と女性は全く違ったものであり、いくつかの点において、それぞれに一方は他方より優れているのです。

DM: でも絶対的に平等であると同時に、また優越しているというのは奇妙な話ですね。

MK: そうですね、同時に両方であることができません。

DM: そしてまた、絶対的に平等であると同時に劣っているというのもおかしなことでしょう。しかしながら、もし過剰な矯正があるとしても、このことによって私が言おうとしているのは、すべての黒人の人生が、白い肌の人々よりも奇妙にも優越しているということではありません。ただアメリカにおける過剰な矯正、そして現在生じていることの多くは、グローバルな文化のアメリカ化というものです。これらの大半は、つまりはアメリカにおける人種問題を、残りの西洋諸国へと輸出しているということです。

そこではすべてのことが、アメリカの問題に照らし合わせて描写されます。しかし、ちょっと立ち止まってみましょう。私の考えているアメリカにおける過剰な矯正とは、こういうものです。つまり過去の人々は、黒人であることはそれ自身として悪しきことである、といっていた。だからこそ、それをちょっと白人にもやってやれば、つまりは過剰な矯正ですが、そうすれば私たちは平等に戻るのだ、というものです。私は、これは破滅的なことだと思います。私が念頭においているのは、白人らしさの研究のようなものです。このような研究は、ただ「問題化する(problematize)」だけの意図をもっていて、そのために設計されています。「インターセクショナリティ」以を除いては、それが言葉のなかでも最も醜い言葉だと思いますが、いずれにしてもそれは白人を「問題化する」ために作られているのです。これは明らかに人種における過剰の矯正の一部ですが、すでに私が示唆したように、それ自身に非常に、非常に有害な負の効果を含んでいます。でも私がいまのところ考えているのは、アメリカは人種転換ということを認めようとはしないだろうということです。というのも、そんなことをしても、人種についてアメリカ人が必要だと思っている過剰な矯正にとって、それは助けにならないでしょうからね。

MK: それはとても興味深いですね。

DM: その一方で女性であることを、より積極的に過剰な矯正のために女性を犠牲にすることは、進んでやっているように思いますけどね。

MK: あなたの本における一つの重要なテーマは、このような題材を流動化するに際して、テクノロジーの果たしている役割です。とりわけグローバルな次元において。そして、面白いなと思うのは、進歩主義的な人々が、彼らなりの仕方でそれを憂慮していることです。たとえばですが、テクノロジーが2016年の大統領選挙で果たした、或いは果たさなかった役割についてですが。

そしてあなたが有益にも強調しているのは、グーグルやフェイスブックのもっている種々の中立性という仮面が、どれほど虚偽であるかということです。そしてまたあなたは、築きあげるのに何年もかかるような名声が、たった一つの抑制を欠いた、あるいは誤解されえたツイートによって、ツイッター上の群衆によって破壊されてしまうことについて語ってもいます。ここで私が辿りついた質問は、民主主義の原理に対してテクノロジー——とりわけ私が念頭においているのはソーシャル・メディアの類ですが、お望みであれば敷衍してください——がもたらす最大の脅威は何だと思いますか。

DM: 私の考えでは、個人の行動原理という点では、それは最も脅威となるものです。個人の行動原理というのは、私がある章で、赦すことを主題にして語っているような何かです——赦すことについての間奏曲的な章です。というのも、ご存じように、アメリカにおける多くの右派の人々は、反‐スノーフレーク(※スラングの蔑称の一つ、あらゆることに感情的に反発するナイーヴな左翼をしばしば意味する)的なことをガンガンやっています。

そしてそれは、本当に残酷なことです。あるいは少なくとも、今日のアメリカや西洋諸国で育った人々が置かれている状況を理解することができないでしょうか。それは、まさに信じられないほどに複雑な世界なのです。世界はいつだって、考えらないほどに複雑ではあったかもしれません。しかし現在の複雑さというのは、かつないほどに一日一日のペースで、より徹底的に痛感させられるものです。私たちが住んでいるのは、「世界のうちにおける活動」、ハンナ・アーレントがある論文で使っており私が引用した用語を用いるのであれば、この世界のうちにおける活動が、これ以上は不安定にはなりえないような世界なのです。

アメリカのある女性が高校卒業の記念パーティに来ていくためにドレスの写真を投稿して、それが間違ったドレスだと判明した場合、彼女が望んでいることが「いいね」を獲得することだったならば、彼女はソーシャル・メディアで厳しく批評され、こきおろされてしまうわけです。これらのすべてのこと、これらのすべての近年の技術的進歩のもつ衝撃は、思うに——私たちにわかるのは、自分がその氷山の一角を知っているだけということで、私たちは、本当はその氷山の全体を見ていないのです。ここで氷山の全体といっているのは、世界におけるどんな活動や判断も、文字通りの意味でも、比喩的な意味でも、あなたにおける最終的な判断や活動になってしまいうるということなのです。だからこそ、あなたはいつでも絶対的な破滅の崖っぷちに立っているのです。

これは部分的には、私が私的言語と公的言語の崩壊として描写したことでもあります。私たちの種族は数千年もかけて私的あるいは公的な仕方で話し、その際にその二つを分けることができるようになりましたが、いまではこの区別が本質的に侵食されているのです。

あらゆる会話があっという間に、直ちに全世界に向けて公共的になり得ます。特に今日おいて十代を過ごしているような若い人々が恐れるのも当然だと思います。

というのも、私がこの章で続けて述べているように、私たちの活動の撤回不可能性と、種としてうまくやっていく手段こそが、赦すことだからです。私たちの文化は、世界におけるありとあらゆる間違った行為を罰することにとりつかれています。それはしばしばたった二十四時間前の間違いであり、赦すということにはまったく時間が使われないのです。

それが私たちの状況なのですが、自分自身を鍛えてそこから脱出しないかぎり、私がこの本で試みようとしたことの一つは、とりわけ若い人々にそこから抜け出す方法を与えることなのですが、彼らはいわば、あまりにやすやすと、要するに何もしないのが一番いいのだと説得してくる世界のうちで、困惑してしまっているのです。そして私たちが真摯に考える必要があるのは、どのようにしてそのような動機づけやあるいは動機づけの欠如を覆すことができるかということです。それはあまりに大きなものなのです。私が思うに、このことをよりよく理解する必要があると思いますし、よく理解した上で、皆でそれを乗り超える必要があると思います。

MK: 思うにそれは、私があなたの本の中で最も印象深く理解したことのうちの一つだと思います。というのも、あなたは実際に、これらすべての事柄に対して寛大さの精神でアプローチしているからです。スノーフレーク的な物事への過敏な反応についても、あなたの意見は全く正しいと思います。それはただ単に若者たちが奇妙なほどに感覚的に過敏になっているということでもありません。またJonathan HaidtやGregが言っているように、単に親の過保護や過干渉の問題というわけではありません。

DM: そう、それはただの親の過干渉だけの問題ではないのです。

MK: ええ、そうです。そうではないのです。私の友人であるSamuel Abramsが、彼は政治学者なのですが、いかにして大学の運営者たちが決定的に若者たちをラディカル化させているかを示すたくさんの作品を執筆しています。そう、若者は入学したときにはある意味で政治的に穏健だったはずなのですが、その後に、あなたが著書の中でその偽りを暴いているような、大学の運営者たちによって組織される催事に参加をすることになるのです。そして、ほとんどの若者たちがこれらをすべて吸収してしまうだろうか、とお考えになるかもしれませんが、もちろん彼らはそうしてしまうのです。

DM: そう、もちろんです。もし大人たちそういったことを若者に教えれば、彼らのうちの多くはそれを信じてしまうのです。いずれにしても、このような学部組織は批判されるべきだと思います。この点についてちょっと実際的な事柄を掘り下げてみることにしましょう。私が考えるに過去20年間において、私が統計的に正しいならば、大学における授業料は、行政上の目的によって、アメリカ合衆国では四倍になりました。だからアメリカにおいて若者は、しばしばそれほど助けにもならない学位のために負債を背負っている、大学の運営者たちに世界について嘘を聞かされるために、かなりの額に達する借金をするようになっているということです。私はアメリカの親たちがこのことを気にかけていないことが不思議でなりません。彼らが巻き込まれているのは、いわばポンジ・スキームの詐欺ようなものなのです。

MK: うんうん。すいません、ちょっといいでしょうか。まだまだあなたに尋ねたいことはたくさんあるのですが、残念ながらもうすぐ時間のようです。ですので、最後の質問で締めくくりたいと思います。あなたは、他の人々のために道を掃除することがしたかった、ということを伝えるために、地雷原の喩えから話を始めました。しかしながら、ご存じのように、権力や影響力をもった地位にある人々は、それをすることを恐れています。そして私の質問は、あなたはそれを成し遂げた。あなたはそれを語った。実際にそうしてみて、それは悪いものだったでしょうか。私が言いたいのは、あなたは真実を語ることによって何かを失ったと感じているのでしょうか、ということです。そしてそうであるならば、それは価値あるものだったでしょうか。

DM: 真実を語ることによって何かを失った、と思ったことは一度もありません。明らかに失ったものはひとつあります。それは、私は絶対に貴族院に招待されることはないということです。

MK: そこにいけばたくさん優れたことができるでしょうに。私はそう思いますよ。

DM: それはどうもありがとう。でもそれをあなたは首相かあるいは女王にいわなければいけないね。女王にはぜひ聞いてもらわなきゃ!

ただ私が、最近気づいたことの一つは——これを部分的には公的な催しに参加することから、とりわけ若い聴衆に語りかけることからそう思ったのですが、近年の私の人生によって最も素晴らしかったことは、誰が思想などに興味をもつかということについての、人々が抱いていた想定というものを180度ひっくり返すことができたということです。私が出発したとき——私はいまちょうど40歳になったので、私もいまは賢人として語ってもよいと思っているのですが——(笑)、私が出発したときには、思想や政治などなどに興味をもつのは年寄りばかりで、若者というのはただ愚かであるか、無関心であるという想定があったのです。

ここ五年か十年でもっとも素晴らしかったことは、十代や二十代の人々が、ますます登場してきたことです。彼らは自分たちの時代の思想に関与したがっているのです。そして彼らはとても賢い、何ともまあ賢いのです。私が行くところはどこでも——私はこの二年間はほぼ毎週のように別の国に出かけています。私は色々なところに旅行をして、驚くほどにたくさんの人々と会話をしています。私はそこで発見したことの一つは、それは部分的にはインターネットのおかげ——私たちはインターネットの否定的側面も話しましたが——また論文や本がますます手に入りやすくなっているおかげでもなるのです。それは部分的には、異やかなりの程度においてYou Tubeに関係しています。

世界中のほとんどどこにいっても、人々がそれぞれの議論のまさに最先端にいることを見出すことができます。私はこのことをとても感動的なことだと考えていますし、並外れたこと、希望をあたえたり、あるいは喚起したりすることだと思っています。というのも、この問題が終わったら、次は何を私たちはできるだろうと、私は考えるからです。

思うに、私たちは、本当に生産的な事柄に取りかかっていくことができます。非常に回り道をしながらこんなことを話してきましたが、それはこういうことを言うためです。私がわかったことは、不安定で脆弱で群衆の暴走によって傷ついてしまうような仕組みが頭に浮かんできるときには、こういった考えや自らの時代の思想のすべてに、すすんで取り組むことを恐れるのです。それは、ほとんどの公的機関で働く人々にとっても、政府で働く人々にとっても、選挙で選ばれた議員にとっても、すべての教育者にとっても、ビジネスに関わる人にとっても、実業界のすべての人々、数百万ドルを稼ぐ人々でも五桁の給料を稼ぐ人々にとっても、世界中のセレブリティにとっても、すべての有名な俳優にとっても歌手にとっても、そうなのです——というのも、人々はすべてを危険にさらすことなくしては、いつでも語ることができない、だからこう聞かなければならないのです。いまは誰がしゃべっていいのですか、と。

ただ奇妙に思えるかもしれませんが、それに対する素晴らしい答えは、頭に浮かぶ誰しもに対して応答する必要などない、と思ってしまえれば誰でも口を開いていいのです。そんなことをするのは、数人かの作家、自分を雇ってくれて、何かが起こったときには群衆の圧力に対して抵抗するが、しかし巨大な傷つきやすさのヒエラルキーをもっていないような、そういう雇い主をもった人々か、わずかなコメディアンだけでいいのです。私は決して自分を誇大化しているわけではないですし、これにはそれ以上の意味があります。私が言いたいのは、自分の人生においては関わらなくてもよい事柄というのが、確実にあるということです。そして人生の全体はある種の事物の選択であり、それは別の扉を閉じておこうということでもあるのです。

それは、私の経験からすると、人々が思っているよりも、ずっとよいものです。ただ私は、たまたまいまは幸福な立場にいます。部分的には自分の創作活動によって、そして部分的にはひょっとしたら幸運によって。しかし私が似たような立場にいる他の人におすすめするのは、それを十分に生かすことと、時間を浪費しないことです。あなたが取りかかる必要がある事柄に全力で取りかかること、そしてそれを他の人に取っても容易にしてあげること。というのも私たちは、男性と女性がお互いのことについて話すことができないような未来、異なった人種的背景や異なった性的志向について語ることのできない未来、そして何も考えることが許されないことによって、何について考えたらいいかわからなくなってしまうような未来を生きることはできないからです。そしてこのようにして、私たちは悪しき考えやメインストリームを支配するも違った考え方のあいだを潜り抜けるのです。私たちはそれを回避することができると思います。そしていずれにしても、もし私はその際に何らかの役割を果たすことができるなら、とても誇りに思うのです。しかし私が言ったように、物を書く人々というのは、それをこそ成し遂げるものですし、私たちは以前にもそうしてきましたし、またずっと希望をもってそうしていくと思います。

MK: 素晴らしい。締めくくるのにふさわしい発言ですね。ありがとうございます。そして私は、誰もがあなたの本を手にしてくださることを願っております。というのもそれは本当にすごいものだからです。お時間をいただきありがとうございます、ダグラス。

DM: 私もとても楽しかったです。ありがとう。

(3・終)
 
https://www.nationalreview.com/2019/10/douglas-murray-book-the-madness-of-crowds-gender-race-and-identity/

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