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[日録]くろぐろとした白

June 19, 2021

 止まることなく奏で続けられる自鳴琴の音色は赤黒く、私が大地に足を根差す一生命であることを強く意識付けてくる思いがする。我々は何人足りとも抗うことのできぬ命令にも似たその音が打たれ尽くすまで、狂っているのか正常なのかも分からない自鳴琴を引っ提げて歩みを止めることは赦されない。赤ん坊が泣きながら生まれてくるのは、我が内に産まれ出づる既存の世界が非情であることを理解しているからであるが、それをいつしか忘れるほどの感情で覆われたならば、死にながら笑うことになるのか、またも泣くことになるのかは、それを動かし続ける歩みが風とともに止むまで当人を差し置いて分かる筈もない。生命を賭けて、否、生命あるからこそ、歩く羽目になるだけであって、誰も歩きたくて歩いているわけでもあるまい。少なくとも私はそうである。日本を出たことがない私であっても、日本を含む地球全体で繰り広げられる行いが如何に非情であるかを述べることは容易い。無論、それを凌駕する美を兼ね備えていることもわざわざ言うまでもないが、そのいずれも人間としての私から見た環世界の内の一つに過ぎず、そのの中で私たちは全体をとして享受しているだけであり、美醜の両方を見ているからといって、の集う全体であるを把握していることには成り得ない。心の声を聴く時代など、今は誰も求めていない。だからこそ、私は把握できない全体を歩くことを強いられているにも関わらず、能動的な気分に切り替えることができないのである。身体である私の足が歩むことに疲れていると嘆いているのであり、心の裡でも、いや、この場合は底と言った方が良いかもしれないが、若しくは、心全体といっても差し支えのない私が身体を受容することにより、正しく全身全霊を以って正にそうかもしれないと語り落ちたことに起因する感情から来る拒絶とすら言えるのである。
 然し乍ら裡なる私なるものが果たして存在しているのかどうかすら訝しんでしまう私のような者たちは何に生かされているのかすら覚えておくことができない。私と何かの境界をいとも容易く行き来する者の一切と結ばれている私が本当に正しく足を動かして生きているのかどうかすら、全く以て、怪しいものだ。
 別段、生きていまいが死んでいまいが、割合如何でも良い。何方でも良いわけではなく、その何方で無くても構わない。何方かで無くて何方でも無いことは中立ということではなく、何も無いことを意味するのだからこそ、私はそうなることを望むかと云うとそういうわけでは勿論なく、何も無い私であるからこそ、何もかも有る枠組みに放り投げられようが何も無く居座り留まることが至上命題なのである。私にとっては◎が○であり、私たちの背後に更なる世界が在ることをも理解している。立体でも無い時空の奥の其処は三つの○を意味するものではなく、意味するところであり、それは●となる。すなわち何も無い。それが私の環世界で在りたいと強く願うことは確かではあるが、その時点で私は何方かに潜む者なることを望んでいることになり、望むことは本能から願う本望と呼ぶに近しい衝動で進む方向とは真逆へ歩みを進めてしまう結果を引き起こすことにもなるのであるから、私が●として心で感じたことと、その事実が私の身体に結びついているかどうかは全く別の問題であることと同じく、私たちは○を認識しているのであると思い至らず理解していることが○であると認識してしまうことも往々にして点在しており、世界とはそれらを全て黒く塗り潰すかのようにぐちゃぐちゃと互い互いに線を結ぶことで出来上がったものなるぞと私と私たちが享受している全体としての○であるに過ぎず、枯れることも実ることもない種の無い果実として存在し得る空洞としての其処、或いは底の、かくも長き不在はまるで永遠にも感じられる。
 私は存在しているということを私が認識したからといって、私が存在しているということを私は理解している事実へと簡単に変換される筈が有ろう筈も無い。

 ・A=B≠B'
 ・○が◎としても●足り得ない

 誰も彼もが存在できているのであれば、誰も彼もがいつかは存在しなくなる。人と人と人々と、それ以外のこととそれ以外のものとそれ以外の全てはいずれも総じて一であるからこそ、泣き叫んで生まれ堕ちた途上の世界であるこの星で、私たちはAとして歩みを進められる。Bは全体ではないが、私以外の者であれば即全体足り得、B'としての機能を働かせるが、働いた作用から成るそれらはBではない。B'とは、足を根差すAからすれば謂わば空想でしか存在し得ない。我々はお互いの認識と理解がずれている中で存在を補完し合っているに過ぎないと感じているからこそ、○を描く線は線ではなく点であることを知っている。その点は我々であるが故に○ではなく当然ながら◎であるが、これらを包括して認識できない●と呼ぶべきかは理解し得ない。白と黒を対極に位置付けたのは人間の驕りから来る行為ではなく、何処か作為的で、何故だか神秘的なところで発した行為としてしか私は見做すことができないからこそ、私に答える術は無い……

・……——・・●。—・…◎…。○…—●/・——‥・●‥—。

 来るべき道が来る際に時空を駆ける時自身が歩く道は、来るべき道であるのかを問うことは出来ても、答える術を持たないことにこそ、私たちが私たちとして、或いはまた私としても存在できている何よりの証拠と言えるのかもしれないが、行くはずであった道が時として存在し得ない事実と同様にして、法律のように時効(民法144条)などで遡及効を例外的に認められているわけでもなければ、時として存在しない事実を生み出し得た行為の取消を認める誰かに見られているわけでもない。誰も彼もが個の裡に咲かせることのない種を抱えているのではなく、種子の存在しない存在意義の無い空虚○な種を、暗黙の内に矛盾を鑑みず抱えているだけに過ぎない。虚空としての誰かの空を、自分の空として食んで食わらば最後、即刻訪れる夕暮れから朝を迎えることが終ぞできなくなる。翻って、最初から何も無いことを受け入れさえしたならば、私たちは●として存在し得る。咲かせることのない種などないことに加え、我々は咲かす余地のないほど豊穣な世界を生まれる遥か前の時——遡及した時——からこの身に食んでいただけなのだと気付くのである。生を受けては現実の内に絡め取られ、異物として悠久の時を忘れ去り、有限の時の中を抗う術すら失われて音が鳴り止むまで歩くしかないが、この事実に気付くことで足取りが軽くなることもまた事実である。
 しかし、軽くなり過ぎた足でるんるんとスキップする内いつしか羽ばたいて有限を幽玄として俯瞰で見ることを許された者の内には、最早自己と呼べ得るものが存在し得ないときもままある。差し詰、プロジェクターで全体を投影するかのように俯瞰で捉え映したならば、光——◎の○としての視覚それ自体を含む——という三次元である道の先の二次元とされる色など関係ない唯の壁には隙間が一切存在しない黒の塊が姿を現すであろうが、それは当然の結果なのである。全体は絶えず蠢いているが、その蠢きすら分からないからこそ全体足り得ている。全体としての私たちが黒というものが自然界に存在しないと宣っていたとしても、私の中には存在している。私たちは何時如何なる時にR0, G0, B0の黒があることを知ったのだろうか。黒が私たちの始まりである事実が、意識の奥底に存在していたからではないだろうか。私たちは自然界だけでも社会だけでもない全体があることを理解しているからではないだろうか。誰も彼もが●足り得る豊穣な世界で過ごして来た時を享受しているからではないだろうか。来るべき道として来た来るべき道を齎す時を進む中で見た色こそが、黒ぐろとしたものだったからではないだろうか。光が白で闇が黒など誰が決めたのかも分からぬ法則など、私を縛る法律には成り得ない。健全なる魂の宿る不健康なる肉体という全身全霊を以てして、私は下らぬ法則の全てを否定する。偶然などは無く全ては必然すなわち奇跡であるなどという法則も、カレーうどんを食す時に限って白いシャツを着ている法則も、無を意味するイマージュが黒——黒●ではなく黒■としての黒——である無常が巣食う法則も、私は根拠も無く否定し尽くす。それは望んでいることでも、況してや本望でも、将又望まれていることでも何でも断じて無い。私が私として無常の存在で有り続けたならば、必然的にそうならざるを得ないだけの苦い諧謔なのである。誰しもが何かを壊したくて生まれてきたわけではないだろうが、何かを生み出したくて生まれてくることを望んで来たわけでもない。だからと言って何方も存在為し得ないわけではなく、何方も等しく存在している豊穣な世界こそが、貴方の正体なのである。
 豊穣な世界は全てのものが等質的に燦々とそれ以外のものへ光を届けているが故に現実の私たちには直視できないほど眩いだけで、壁に●として映る全体を此の眼で見るとその全ての一が神々しい境界線の無い○であり、そこに呑み込まれる私たち自身も○のように光り輝く存在となるよう背後の世界から身を焼かれ、黒をも通り越した白い灰。となり、今や誰にも観測為し得ない点となって全体の中を漂っているのであるが、私も私たちも言わずもがな一つ一つは白い灰。にほかならない。周りを漂う空気が目に見えないことと同じように、白い灰。は私たちとして世界に一つである全体となり揺蕩っているに過ぎず、私も抗う術なく一陣の風を見倣い生きている筈である

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