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[日録]私は電気羊の夢を見る。

May 24, 2021

 先日、前途有望な若者が彼の年齢よりも片手で数え上げられるほどしか年上ではない若輩者の私が映像を作っているということを知り、自分も将来は映像を作りたいですと目を輝かせて語りかけてきた。彼は映画だけではなくアニメや音楽も好きらしく、いつしか趣味の話になりビートルズやキューブリック、果ては『呪術廻戦』等々の話でぎゃあぎゃあと周りの迷惑なども顧みずに楽しく話していたのだが、彼はふと私に "なんでそんなに詳しいんですか?" と羨望の眼差しを向けてきた。その清流よりも澄んだ瞳は、日陰者の私には煌びやかでとても眩しく、思わず目を逸らしてしどろもどろになってしまったのだが、彼は構わず続けて問いかけてくる。"いつからそうなったのですか?" と。以前のnoteでも書いた "いつからそうなったのですか事変" が時を経て、令和になって再び訪れたのである。
 私は幼少から小学生にかけては漫画ばかり読んでいたが、中学生から高校生の時分は小説と音楽が生み出す世界の奥深さに目覚め、大学に入学すると気でも触れたかのように映画を貪り観るといった生涯を送ってきた。そんな私は彼含め周囲の一部の方々から見れば、膨大な作品に触れ、それらを吟味しながらも自分に吸収している稀有な人間であると映っていることもあるらしい。たしかに同年代と比べると、それらに触れた単純な数だけは多いのだろうと自負してもいるが、だからといって、その経験が果たして聖なる知恵として私に染み込んでいるのかどうかは正直なところ自信がない。
 彼は、私が彼よりも十倍以上の作品に触れていると述べ、その幅広さに驚いては褒めそやし、その態度からは純粋に私を称えてくれていることを感じ取れる。私が自らの生命を燃やす一過程として——平たく言えば暇潰しとして——行なっているに過ぎない「作品に触れる」という行為に対して、ある種の尊敬の念を込めて接してくださる他者がこのようにままいるのだが、当の本人はついつい反応に困ってしまう。いずれの作品も生み出したのは私ではないし、インターネットが世界を覆い尽くしている今現在は、年齢問わず誰でもその気になれば朝昼晩の料理を作ることよりも容易に、ベッドの上で寝転びながらでも如何なる作品であれ触れることができるような時代である。KindleやnoteなどのSNSで漫画や小説を読むことだって、YouTubeやSpotifyで世界中のアーティストの音楽に触れることだって、Netflixで製作費ウン億円の超大作映画を観ることだって可能であり、それらのいずれのサービスも一切使っていないという人の方が今では珍しく、私自身、それらのサービスなくしてこれからの人生、はいドウゾ! と言われてしまえば砂漠に放り出されたような気持ちになって途方に暮れてしまうだろう。想像しただけでも悍ましいが、幸いにもここは砂漠では無く、台所の蛇口を捻るだけで冷水が出るので、私はそれをコーヒーの残滓が底に溜まったマグカップに入れてはすぐさま飲み干し冷静になると、私が幼少の頃はYouTubeやAmazonなども無かったなあと物思いに耽った。漫画や小説などは書店を梯子して買い漁り、SpotifyやNetflixが台頭し始めたのも社会人になってからだったので、レンタルビデオ店に足を運んで、曳いてはアルバイトとして潜り込んではCDやDVDを借りるといった生活を毎日のように繰り返していたあの日々が、まるで遠い過去のように思えてくる。
 さて、今一度MacBookの前に坐り直し、状況を整理してみよう。
 "いつからそうなった" のか。 "そうなった" が指すのは私がありとあらゆるメディアの作品に触れてきたことであろう。一旦、それらが私の知識として蓄えられているか、また、血肉となっているかという問題は脇に置き、別の機会に考えてみることにする。
 私は物心ついた時からテレビを見ては戸愚呂弟のモノマネをしてはしゃいでいたのであるが、最初に作品として触れたのが『幽☆遊☆白書』のアニメかどうかは定かではない。ともかく私はそれから今に至るまで作品というもの、広くは表象文化に魅了されてしまったのであるが、恐らく死ぬまでその虜であるのを止めないであろう。畢竟、 "いつから" と問われたら、 "物心ついた時から" と答えるしかない。そして "そうなったのか" に対しては、 "いつから" と同じく "物心ついた時から" と答えても不適切では無いし、それ以外に良い返しも今のところ思いつかない。何とも面白みの無い回答だが、事実としてそうなのであるから仕方が無い。私は再三日録で申し上げているとおり、たまたま地球に産まれ落ち、そのどデカい球体の回転とともに自身の生涯を過ごして来ただけに過ぎず、それは天地開闢以来ある人類普遍の共通事項として生きとし生けるものが享受していることであり、私が何か特別だというわけではない。強いて言うなら、戦後五十年以上も立ち、今なお様々な問題を抱えてはいるが、作品を誰でも気軽に楽しめることが可能になった "平和な日本に生まれたこと" が特別と言えるのかもしれないが、これまた現代の日本人であれば皆同様に共通していることなので、私だけのものでも何でもない。家庭環境は思い返したくないほど嫌なものではあったが、それが却って家族を気にすることなく私が好きに生きるためのエンジンをより強固なものとし、その駆動に必要な作品というガソリンは書店やレンタルビデオ店に駆け込めばいくらでも補充可能であり、金銭が気になるのであれば友人や図書館に相談すれば良いだけの話である。勉強や部活動、恋愛といった学生生活特有のイベントなども片手間に済ませてさえいれば、周囲の大人や同級生にも文句を言われることは一切なかった。こうして私という人間は "そうなった" のである。
 私は何も、その生活を送り続けることに対して一切気にせず、ただただ悦楽のもとに謳歌していたわけではない。人並み以上に自分という一個人について悩んでいたりもしたのであるが、その苦悩を払拭してくれるのもまた作品であったことも事実で、私の人生はそれらに縋るしかなかっただけなのかもしれない。先ほど "学生生活特有のイベント" としてあっさりと青春を割り切ってしまった自分に自分で情けなくも思うが、私にとっては現実世界など表象文化の生み出す世界に比べれば実につまらないものだと真に感じていたし、後者を通じて分かち合える人々としか前者の生活すら共にしていなかった。簡単に言えば、虚構に埋没して現実を疎かにしていたのであるが、今なおその姿勢は崩していない。ただ、先述したようにその事実に気付いていながら見ないように務めていたわけでもなく、哲学書などに手を伸ばすなどして思い悩んだこともあったが、それは一個人の胸の内に抱える悩みに過ぎず、他者からすれば気にも留めないような瑣末なものであり、私がどう生きようと誰も興味が無いのだと思い至ってからは、開き直っては呆けたフリをして日々を過ごすことを決意したのである。今尚そう在り続けることで何も問題がないかと言えば嘘になるかもしれない。定番のお悩みとしては、同僚との飲み会などで会話が弾まず、輪の中に入れないといったことが挙げられるだろう。私は今の職場に恵まれてはいるものの、そういった場面に遭遇することも時折起こり得るのだが、その一日さえ何とかやり過ごせたならば、あとは寝て起きたら忘却の彼方へと記憶を棄て去ってしまうようになったので、ストレスを抱えることも然程ない。そんなことを気に留めて呼吸をし続けるよりも、今読んでいる本の続きを惟みている方が清涼な空気を受容でき、そして、これを読んだ後は何を手に取ろうか、いや、映画でも観ようかなどと考えていれば気持ちも高揚してき始め、明日への一歩を踏み出すことすら楽しみになるのである。
 その生き方が、今はたまたま板についているだけで、将来は困ることになるのではないかと心配してくださる方もいるであろうが、明確な将来など一体誰が予想できよう。幸いにも、私は今のところ定職に付けているし、AIが隆盛を極めた昨今では、誰しもが手に職を持つべしと謳われているが、当の私はプログラミングはできないものの映像制作を一人で一貫してこなせる程度には得意としているので、生きていけないと泣き喚くほど困ることはないだろうと、ある程度は楽観視できている。また、家庭も持っていないので最悪アルバイトでもなんでもすればいいし、それすらままならず健康で文化的な最低限度の生活を送れないほどに至ってしまったとしたならば、生活保護受給制度に与れるよう日本国憲法は保障してくれてもいる(もちろん、受給審査が厳しいことがあるのは理解しているが)。そもそも私からすれば、もはや現実こそ虚構に塗れてしまっているのではないかと言いたいくらいである。皆が生活を送る中で見ている現実というものが、現実として機能しているのか甚だ疑問である。何故、環境を壊していると理解しながら皆は必要以上に消費することを止めない? 何故、新型コロナウイルスが十四日間で死滅すると分かっているのであれば大人しく一ヶ月だけ経済活動を停止して皆が家に篭り、政府が食料を配給するなどして乗り切ることに努めない? 何故、尊い人命を易々と放棄することを選ぶ人々が蔓延した腐り切った日本でオリンピックを開催することが人類の繁栄の証だと此の期に及んで言い切れる? 苛々してくるんだよ。人さまの生き方にケチをつけられるほど立派な人間ではないのはお互い様だろうが。
 ここまで書いてきて、冗長なつまらない独白になってしまったなあと自分でも感じているが、それはまさしく現実に足を根差す一庶民の人生を客観的に見たらつまらないものであるかを逆説的に証明しているとも言えるのではないだろうか。だからこそ、私はあまり他者に対して興味を持てないし、プライベートの相談などされようものなら聞いているだけ時間の無駄だと思ってしまうので、現実世界において人と関わることを極力避けている。私などに相談するより、そういったことをテーマにした作品や哲学書などは腐るほどあるので、それらを紹介する方がよっぽどその人の為にもなると私は本気で信じてもいる。人と過ごしていると落ち着くのだと云うのであれば、その "人と過ごす" という人に私を含めない限りは勝手にすればよい。私のような独りで過ごすことに人生の重きを置いているものなど邪魔であろうから、私はこの部屋でひっそりと夢想することに努めよう。人間のイマジネーションは無限大であり、歴々と続くそれらの幻想が積み上げた世界で過ごす方が気持ちも昂り、その中であれば童心を忘れずに爛々と目を輝かせて冒険をすることもでき、時には強敵に阻まれ苦戦を強いられ憂鬱になることもあるが、それすらも虚構であるため現実の肉体には直接的なダメージを得ることは無いので、私はいつでも安らかに眠ることができるのである。夢の中で、わざわざ現実で起こり得るような経験を見せられても大した感動は無いだろうし、況してや苦々しく嫌な経験を反芻させられては腹が立つのは皆同じであろう。摩訶不思議な世界を見られることこそ、夢の醍醐味なのであるから。私はただ、それと同じように現実でも夢が見たいだけなのだ。虚構の世界を現実で味わうことでこそ、私は生きていると実感できるのである。成程、答えは出た。 "いつからそうなったのか" と問われれば、これからは "私が初めて夢を見た日である" と返答に窮することなく鮮やかに言い張ろうではないか。かつてパスカルが思い至ったように、 "人間の問題のすべては部屋で独りで静かに坐っていられないことに由来する" 。私は独りで過ごしていようとも虚構の世界を旅することを止められない。それ故に、皆と同じように問題を抱えることになるのであるが、その揺るぎない真実こそ、私が現実に生きている人間であることを証拠付けてくれるのである。

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