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[日録]回帰するきさまとの対話

June 29, 2021

 解雇と云われるとどきりとするのか、ほつとするのか、はたまた両の感情を抱くことになるのか、その時にならなければ、あるいは、その時になることを前もつて考え及んでいる当人でなければ、分かろう筈がない。私は今のところ、あまり考えたくもないが、いつそのこと、雇われることから解き放たれた方が、今を生きている感覚をより強く得られるのではないかと、根拠の有無も分からない渇望を抱かないこともない。では、社会という現実に囚われた魂が生み出した鎖に繋がれてもいないことに気づきましたとばかりに、その存在しない鎖を引き千切ることなく引き千切り、颯爽と歩み出す現実の私が何をするのかと問われても、言葉に窮してしまうことが人間世界で生きることの複雑さであると私は考えている。
 この複雑さが発生する起因となるものは、言葉によるものである。この日録と云う私の文章も、複雑ではなく稚拙である事実を敢えて省みず恥も外聞も捨て、自らの口で言うならば、また、それを読んでくださる皆々様が、複雑さとは衒学的であると皮肉を含んだ言葉で簡単に断じてしまうような人では無いことを承知で喧伝するならば、堂々たる態度でつらつらと書き綴ることは流石に気が引けるが、複雑だなアと思われても仕方のない言葉であると、たまに読み返す私自身も感じ入る事実であると考えてもよろしいだろう。基本的に三、四時間で書き、その日と翌日、時には翌々日までじつくり読み返して、その間も丁寧に推敲し、折を見て投稿するのが日録と云う私の言葉群なのであるが、定期的に読んでくれている友人からは、まるで理解を拒んでいるような独特な読み味だと云われたことがある。
 私はどきりとした。そして、ほつとした。彼は、この不甲斐ない私の一切に対して、年上であるにも関わらず、どれだけ精巧な天秤をアルキメデスが作ろうとも、いくら人間だけが美しいと感じられるものは直線であると考えたコルビユジエがペンを走らせようとも、これほど二つのものを平行には結び得ないと云うくらい、目線をまつすぐ合わせてくれる理解者であり、その理解は私から発露される感覚についてまで、思わず当事者たる私も客観視して頷いてしまうほど、瞬時に選び抜かれた説得力のある言葉で、滔々と的確に感じられることを述べてくれる、物好きなハンサムである。
「これ、わざと難しく書いてンの?」
 疑問符が付いてはいるが、言葉尻から察するに、私に対して疑問を投げ掛けているのではなく、むしろ彼の頭の中では答えがすでにあり、それを確証付けるため、敢えて反駁される可能性のある疑問として昇華し、問いかけてきていると、私は瞬時に認識した。私と彼は、淀みなく、理解を超えた感覚で掴んだ認識だけで会話に興じることばかりであり、今では私は彼の発する言葉が何処へ向かうことを望んでいるのかまで、何となく、ぴんと来ることが往々にしてあるが、この時もそうだつた。
「いやア、そんなつもりは無いんですけどネ。なンだか、書いている内に、こおなりまして」
 考えて答えた言葉ではなかつたが、それが私が答えた答えに他ならなかつた。そもそも、ぴんと来るなどとして察すること自体が、理解を超えた感覚なのである。したらば、彼を前に私の本心をることなど以てのほか、私が彼に答えるために応じる言葉も、良きにつけ悪しきにつけ、繕うことに用意された言葉であつてはならないのだから、こう答えた私の言葉はなるものである。
 実際に、この日録と云うものに対して、私はそう云う感覚で挑んでいる。挑むなどとは物騒なとお思いかもしれないが、今では、私に立ちはだかる何かとして、これを強く意識している。最初は、臨むと云つた姿勢であつた。書くことの楽しさを得るためだけに、水を得た魚のように、鍵盤の上で指を跳ねらせながら、『ポンヌフの恋人』のアレツクスとミシエルを自らの両の手に喩えて、狂想と狂乱のさなかで踊り狂いたい衝動に駆られた時にのみ、だらだらと書くようにしようと云う程度の試みに過ぎなかつたため、あまり積極性を伴つた能動的な言葉とは少し異なる印象を抱く、臨むという感覚を原動力にしていたのである。しかし、却つてそれが、私が自由に書くことの意義を問うものとなつた。私は意義無き物事が嫌いなわけではないが、ついつい心の裡で、あらゆる物事の存在意義などを考えてしまう癖があるので、そんな私であれば、やがては、書くとは何であるかや、自由とは何であるか、果ては私とは何であるかと云つた諸問題にぶつかつてしまうことは、冷静になれば導き出せた答えなのかもしれない。兎角、そうして私は、ぶつかつた、あるいは、ぶつかつて来た根源から湧き出でる謎に、まざるを得なくなつたのである。部首さえ取り替えてしまえば、いつでもげられるのだ。大して怯える必要もないだろう。私はいつだつて私であり、能動的に全ての物事を行うことができるのだ。
 果たして、本当にそうなのだろうか。いついかなる時も私が私なのではなく、仏の教えに依れば、いついかなる時でも生なる時間を過ごした全てが私であり、つまり私とは恒常的な存在なのではなかつたか。その考えからすれば、コギト・エルゴ・スムなど、私という存在が私として存在していることを証明する根拠足り得ない。私が考えていること、あるいは、考えている瞬間が、私なのではなく、その一切を含んだ始まりから、終わりまでが、漸く私となるのであつて、暫定的な私などは本来の私などとは成り得ない。死にたいと考えている私が居たとして、その局所的な存在が、局所的に意図することは、永久に世界から消えることを渇望しているのではなく、生なる時間を終わらせることで、逆説的に私という存在を確立せしめんとする行為なのである。私も幾度となく望み、臨んだこともある自殺という行為を能動的に捉えたならば、そうであるとも考えられ得るのかもしれない。しかし、自殺を選ぶ起因となるものは、果たして私が能動的に生み出した何かで会つたことが、唯の一度もあつただろうか。それはすべからく、受動的なものではなかつただろうか。
 私はここで、自殺の一切は、本人ではない誰かに責任があるのだなどと糾弾するつもりは毛頭ない。有史以来、自殺した中には、周りからすれば自業自得だと思われて仕方のないこともあつたのかもしれない。例えそうだとしても、そうするに至らしめる根源は、私以外の全てのものが、存在している事実に起因する。つまり、原因はあくまで受動的なのである。とはいえ、いずれの感情も発露するのは私であることから、結果として、存在を社会の中に据え置くことを嫌い、己の手で己の存在を完結させた者に対しては、想像の中で語ることしかできない。自らの血に染まるさなか、もしくは、自らの血が止まるさなかで、死にゆく私が何を思つていたのか、本当のところは誰にも分からない。いくら聡明で静謐な文章で、己についてを紡ごうとも、その死に至る病を——感覚をも含む、一切を——理解することなど不可能であるから、なるべく私は、簡単に理解などしたくもないし、されたくもない。だからこそ、私の紡ぐ文章は、理解を拒むに至る病に侵された文章であると揶揄されるに至つたのだろうが、事実、かくも旧い日本の言葉をあべこべにないまぜにした文章をわざわざ綴ることは、懐古的な感情から来るものでは断じてない。
 当然ながら、それは暫定的な私の意見に過ぎないため、包括的に存在を捉え、二進数の世界まで解体して吟味されるのであれば、本質的には懐古に浸る酔狂な酔いどれ天使であるとの判断がるのかもしれない。しかし、それは存在が完結し、全体の中で "0" と "1" を孕む私が恒常的な一つの全なる者たりえた時にしか分かり得ない事実でもあるので、今から思考を巡らせようとも、恒久的な理解を得られる可能性のある事実としての意見を述べることはできない。月並みな言葉に置き換えるならば、少なくとも今の私は懐古主義などではなく、ただそう考えているとしか、存在を理解し得ない以上は云うことができない。
 懐古と聞くとどきりとするのか、ほつとするのか、はたまた両の感情を抱くことになるのか、その時にならなければ、あるいは、その時になることを前もつて考え及んでいる当人でなければ、分かろう筈がない。私は今のところ、あまり考えたくもないが、いつそのこと、古めかしいことから解き放たれた方が、今を生きている感覚をより強く得られるのではないかと、根拠の有無も分からない渇望を抱かないこともない。では、社会という現実に囚われた魂が生み出した鎖に繋がれてもいないことに気づきましたとばかりに、存在しない鎖を引き千切ることなく引き千切り、歩み出す現実の私は何をするのかと問われても、言葉に窮してしまうことが、懐古と云う言葉の持つ複雑さであると、私は考えている。
 この複雑さが発生する起因としては、その言葉が過去の一切を孕んでいると見做されているからに他ならない。存在は過去にも存在する。現在に存在し得ないもの——死者をひた隠し、見ぬようにしてきた一つの全体たる社会——は、存在としての過去であるをいつしか忘れ、として現在を歩むことを選んだが、私は選挙に投じた覚えは切ない。もちろん、覚えがないだけで、実際は投票用紙を丁寧に折り畳み、の存在となることへのあまりの恐ろしさから逃れたい心で、の匣に入れてしまっていたのかもしれない。
 言ゐ訳ばつかりするなよ、おまゑさん。二進数の世界に引き摺り込まれたならば、私の中の掃き溜めとして存在し得る私であるきさまがずるりと顕われる一方で、私が存在しなくなる時が訪れることも私が存在した時点で生じる原初以来より語られる揺るぎない真実でもあることがようやく理解できた。そうなった今、私には本当に、今、何も言いたいことは、今は無いのだろうか。期せずして、本日を以て私は私として存在しなくなる可能性もでは無いのだ。
 よおく考へろ、おまゑさん。掃き溜めとしてのきさまがそう囁く。或いは嘯いているだけなのかもしれないが、掃き溜めの私の言葉としての何かに限らず言葉という切のものが脳に媚びり着いたら、幾らそれがくだらないことだと心で感じていようとも、中々綺麗に剥がすことができないのが人間の性であろう。性の存在は生の存在と同義であるが故に、私たちは争うことを止められない。に投票した競争社会を忌み嫌う可能性としての私の存在と同様、そこで存在し続けることを止められないのである。何かを言葉で現すことに慣れてしまう前の幼年の私が、ぺたぺたと部屋の至るところに貼り付けた有象無象のシゐルさながらに、我が脳内空間には言語と言語に変換された神札の皮を被った呪ひで埋め尽くされてゐるのだ。ゐつものやうに幼稚園から帰宅し、性懲りも無くシゐルでのはずの空間をで彩る過去の私は、明日も朝ゐち皆と積み木を積んで遊ぼうと誰に言うでもなく独り勝手に決めては興奮して、一向に眠ることができなかつた。呪ひなどと言ふ言葉すら知つてゐたのか定かではない当時の私は、現在の私よりも世界に身を投げ打つて存在してゐたのかしらん。それを思い出すことは終ぞ叶わない。しかし、この日の出来事を私はきっと一生、忘れないだろう。
 朧げな記憶でしか無ひ上記の出来事がどうしたんだい、おまゑさん。私はこの日、初めて人が死ぬと言ふことを理解せずとも認識したのだ。寝台の上で薄暗がりにも慣れた両の目は、眼鏡無しでは生活できない今よりも視力が良かったことは間違いないであろうが、その時の私は涙を流し、その止まることのない水流に覆われた瞳に映る天井は、やはり暗かつた。どのやうなを以てしても、この存在としてのが存在することを理解した私を笑顔にさせることはできなかつたであらう。が死ぬと言ふことを認識し、嘆いたのではない。私は積み木遊びを緒にしてゐる彼らも、いつかは死んでゐなくなるのだと言ふ事実を、何故だか分からないが唐突に頭の中で思い起こし、彼らと会うことがとして叶わなくなる日が来ることを、何よりも哀しいことなのだと理解したのであるが、死ぬとはどう言ふことかを理解し得たわけではないし、そのから今や二十年以上も経ち、令和を生きるですら良く分からない上に、次の元号まで生きながらえられ得たとしても、理解することはぞ無いだらう。きている間はきさまのやうな掃き溜めがいないと生きられない。共存する私たちは世界を汚す共犯として人生を全うすることを余儀なくされてゐる。今まできさまが吐いた呪ひの言葉は数知れない。私ときさまとで思い覚えて賄い捌き切れるほどの分量では無いことだけは理解できる。
 ごちそおさま、おまゑさん。私のとして存在しているきさまは、そう嘯いてにやりと嗤うと満足した表情でである私の中に存在するの中へと還つてゐつた。

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