見出し画像

魔法少女の系譜、その154~『ベルサイユのばら』と戦闘少女~


 今回も、前回に続いて、『ベルサイユのばら』を取り上げます。

 前回に書きましたとおり、『ベルばら』は、魔法少女ものではありません。この作品に、魔法や超能力は、登場しません。
 にもかかわらず、『魔法少女の系譜』シリーズで『ベルばら』を取り上げたのは、ヒロインの一人、オスカルの造形が、「戦闘少女」だったからです。

 二〇二一年現在の娯楽作品では、戦闘に参加する少女なんて、全然、珍しくありませんよね。男装する少女も、しばしば見られるキャラクターです。女装する男子を指す「男の娘【こ】」という言葉があるくらい、フィクション作品では、ジェンダーフリーになってきました。

 『ベルばら』が連載された一九七〇年代は、まるで違う状況でした。異性装をするキャラクターも、戦闘に参加する少女キャラクターも、珍しいものでした。それは、現実の状況を反映していました。
 一九七〇年代の日本の女性は、現在では考えられないくらい、抑圧されていました。

 私は、『ベルばら』の作者である池田理代子さんの講演を、聴いたことがあります。
 その時のお話で、最も驚いたのは、「『ベルばら』を連載していた当時、女性漫画家の原稿料は、男性漫画家の半分だった」ということです(*o*)
 女性漫画家のほうが、男性漫画家より、描く量が少なかったからではありません。まったく同じ時間で、まったく同じ量の原稿を描いても、ただ、「女性だから」という理由だけで、原稿料が半分だったというのです。それが、当時の出版界の慣行だったそうです。

 この悪習は、さすがに、二〇二一年現在には、受け継がれていないと思いたいです。
 例えば、二〇二一年現在、大ヒット中の漫画『鬼滅の刃』を考えてみましょう。『鬼滅の刃』の作者、吾峠呼世晴【ごとうげ こよはる】さんは、女性だと聞いています。
 もし、吾峠さんの原稿料が、「女性だから」という理由だけで、『ジャンプ』で描いている他の男性漫画家の半分だとしたら……そのことが、暴露されたとしたら?

 ネットが大炎上するのは、間違いありませんよね? マスコミでも報道されて、大騒ぎになって、どうかすると、物理的に、集英社さんのビルが焼かれてしまうかも知れません(^^; 間違いなく、出版社が公的な謝罪に追い込まれて、原稿料が是正されるでしょう。

 でも、一九七〇年代には、そんなことは、できませんでした。「女性の労働対価は、(同じだけ働いても)男性の半分」という理不尽なことが、「常識」として、まかり通っていました。
 当時の女性漫画家さんは、それを知っても、立場が弱いために、泣き寝入りしていました。当時は、ネットもありませんから、「個人が出版社に対抗して、理不尽なことを暴露する」などということも、事実上、不可能でした。

 池田理代子さんは、あまりのことに我慢ができず、「なぜ、女性漫画家の原稿料が、男性の半分なんですか?」と、編集さんに訊いたそうです。
 すると、編集さんの答えは、「だって、男は、妻子を養わなきゃならないんだよ」だったそうです。

 つまり、一九七〇年代の「常識」とは。
 ヒトは、男性であろうと女性であろうと、全員、必ず結婚する。結婚したら、女性は賃金労働を辞めて、専業主婦になる。男女が結婚したら、子供も必ず生まれる。妻と子供は、男性が賃金労働をして、養う。
 だったわけです。

 ここでは、「結婚しない人」も、「結婚しても子供がいない人」も、「結婚してからも賃金労働をする女性」も、「賃金労働をしないで家事をする男性」も、「夫より稼ぎが良くて、一家の食い扶持を稼ぐ妻」も、視界に入っていません。数が少なくても、さまざまな事情で、一九七〇年代にも、そういう人たちは、いたはずですのに。
 一九七〇年代が、どんなに窮屈な時代だったか、わかっていただけるでしょう。当時、少女だった女性に訊ねると、「女は、どうせ嫁に行って(専業)主婦になるんだから、教育をつける必要はない」と言われて、大学へ行かせてもらえなかったという話を、たくさん聞きます。

 二〇二一年現在では、一九七〇年代(昭和四十年代後半~昭和五十年代前半)など、「昭和の時代」が、「良い時代だった」と回想されることが多いです。
 しかし、私は、池田理代子さんのこのお話一つをとっても、「昭和の時代に戻りたい」なんて、思えません。
 むしろ、「令和で良かった! たとえ建前であったとしても、男女雇用機会均等法があって、公に訴えれば、男女同賃金が当然と言われる世界で良かった! 多様な生き方が認められる社会で良かった!」と思います。

 こんな型にはまった考えの人ばかりがいた一九七〇年代に、『ベルばら』のオスカルが現われたのです。
 オスカルは、男装して、男性に混じって、対等以上に戦い、自分の生き方を貫きます。抑圧された少女たちにとって、オスカルは、どんなにか、輝いて見えたことでしょう。
 少女たちが熱狂したのも、無理はありませんね。

 もう一つ、池田理代子さんのお話で印象的だったのは、「当時のファンレターで、『アンドレみたいな男性がいて欲しい』というお便りが、いっぱい来た」とおっしゃったことです。
 アンドレは、オスカルの幼馴染ですね。庶民ですが、オスカルと一緒に、貴族の屋敷で育ちました。身分制度の厳しい十八世紀フランスでは、アンドレの社会的地位も、稼ぎも、オスカルを上回ることは、まず、あり得ません。
 もし万が一、アンドレがオスカルと結婚したとしたら、逆格差婚、逆玉の輿です。絶対的に、アンドレの立場は、オスカルより下です。

 一九七〇年代の日本では、このような逆格差婚や逆玉の輿は、ほぼ、フィクションの世界にしか、存在しませんでした。
 その理由は、第一に、男性と同等以上に働いて、同等以上に稼ぐ女性が、少なかったからです。
 第二は、そのような女性がいると、男性の側が、結婚するのを嫌がったからです。男性のほうが、自分のプライドがつぶされると感じたのですね。この傾向は、二〇二一年現在も、残りますよね。

 『魔法少女の系譜』シリーズで取り上げた、『ザ・カゲスター』を覚えておいででしょうか? 昭和五十一年(一九七六年)に放映された特撮テレビ番組です。『ベルばら』の連載開始から四年後ですね。
 『ザ・カゲスター』では、男女ペアのダブル主人公が活躍します。主人公たちは結婚していなくて、友達同士みたいな関係です。そして、当時としては非常に珍しく、「女性のほうが、立場が上」という設定でした。
 ヒロインのベルスターに変身する風村鈴子は、ヒーローのカゲスターに変身する姿影夫の職場の上司です。職場で、鈴子が影夫を振り回す様子が、コメディとして描かれました。

 池田理代子さんのお話を聴いた後で考えると、「なぜ、『ザ・カゲスター』で、女性のほうが立場が上であることを、コメディで描いたのか」が、身に沁みます。一九七〇年代には、その状況は、あり得なさ過ぎて、シリアスには描けなかったわけです。
 もちろん、子供向けの番組ですから、子供向けに面白くするために、コメディパートを入れたのでしょう。「女性のほうが上」であることが、コメディパートに選ばれたことが、一九七〇年代的です。

 『ベルばら』に、話を戻します。
 二〇二一年現在でも、日本の男性は、女性が自分より立場が上になることを、嫌がる傾向があります。まして、一九七〇年代には、そんな女性を愛して、付いてきてくれる男性なんて、ほとんど、いなかったでしょう。
 アンドレは、十八世紀フランスに生きる人ながら、それを実行しました。

 オスカルは、並みの男性よりも厳しい道を歩むことを、自分で決めます。アンドレは、そんなオスカルに文句ひとつ言わず、信頼して、付いてゆきます。
 アンドレとオスカルは、法律的な結婚こそ、しませんでしたが、心は、確かに、通じ合いました。

 アンドレみたいなパートナーは、二〇二一年現在でも、欲しいと思う女性は、多いのではないでしょうか。
 一九七〇年代に、「アンドレが欲しい」と感じた少女たちの気持ちは、わかる気がします。
 『ベルばら』には、フェルゼン伯爵や、ジェローデルや、アラン・ド・ソワソンなど、格好いい男性が、何人も登場します。少女漫画ですからね。そんな中でも、ファンレターの反応では、断然、アンドレが一番人気だったそうです。

 『ベルばら』が、記録的に大ヒットしたことで、「男装する女性」や、「戦闘少女」といった女性の造形が、受け入れられやすくなりました。
 ひょっとしたら、一九七〇年代の『ザ・カゲスター』や、『ゴワッパー5 ゴーダム』といった「戦う女性」が主役を張る作品は、『ベルばら』の影響もあって、生まれたのかも知れません。
 『ザ・カゲスター』の場合は、超常的な能力で変身するので、「戦闘少女」と「魔法少女」とが融合した形です。早くも、一九七〇年代のうちに、魔法少女と戦闘少女との融合が始まっていました。

 セイカのぬりえシリーズの『キャシー&ナンシー』のように、あからさまにオスカルに似たキャラクターが登場する作品も、生まれました。
 『キャシー&ナンシー』も、キャシーが魔法道具を持つので、魔法少女ものです。キャシーは剣の名手でもあり、戦闘少女の要素も持ちます。

 日本の魔法少女ものは、戦闘少女の要素を得て、飛躍しようとしていました。

 今回は、ここまでとします。
 次回は、『ベルばら』とは違う作品を取り上げる予定です。



この記事が参加している募集

マンガ感想文

アニメ感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?