「書道」というには気恥ずかしい
2023年は毎日、一度は筆をもち、作品を作ったり日記を書いたりしています。もうすぐ半年だと思うと、私なりに「継続」できていることだなと思います。
私は「書道」の作品を心から誇れるほどの技術はなく、臨書から逃げた身です。しかしながら、「言葉」に思いをのせて書く時間が好きで、そこで生まれたものを残していくためにSNS上に投稿しています。
そんなことをしていると同じく書道が好きな人と合作をしたり、全く異なる趣味の人の作品とコラボしたりと、面白いものが生み出されているわけです。
合作の作品はまた今後、紹介したいものですが…
今回は「#私の作品紹介」に便乗し、今週の作品を紹介します。
あらかじめ伝えておきますと、私が作品を作るときは以下のような流れです。
1つ目と2つ目の違いは難しいものですが、1つ目のほうがどちらかといえば「辞書的意味」に近いと考えてください。
このようにして、考えて作品を作る私(4つ目は例外)ですが、その思いを「伝えたい」わけではありません。
自分が「のせた思い」が「伝わってほしい」と思うのは、少し傲慢であると考えています。
だから、見た人が「なんとなくいいなと思った」「雰囲気が好き」という感想をもっても構いません。もしくは、私がのせた思いとは異なる捉え方をしても構わないのです。
その曖昧さが生み出されることを敢えて厭わないというものです。
以下、作品の紹介と共に、自分の思いを記録しておきますが、これは無視していただいて構いません。
もし、見たあなたが異なる解釈をしたとすれば、ぜひ教えていただきたいものです。
「印象」…パターン2つ目
「印象」というものは最初から変わらないことが多いと思う。「意外だ」と思うには受け手の「余裕」が必要で、対人関係において、常にその「余裕」を持ち続けることは容易ではない。最初に受け取った「印象」はその人の大部分を締め続け、動き出すことが少ない。だからこそ、最初は丁寧に、過ごすべきかもしれない。
「愛想」…パターン3つ目
最初、作品にしたかった言葉は「無愛想」。「無愛想」にも、実は「愛」があるのではないかと、ふと思った。ただ、「愛想」という言葉を考えたとき、「愛」があるのか疑問に思う。「愛」がないとは言い切れないが、「無愛想」と相対するはずなのに、なにか物足りない。それは言葉だけ
、文字だけが先走っている、強く出てしまっているからではないか。それを一画一画の強さで表現した。
作品を言語化するのもまた気恥ずかしいものでした。