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雪の中で

私の家の近くに、
内科、外科、眼科など、一とおりの診療科が揃っている病院がある。
大学病院などと違い、予約や紹介状が無くとも受診でき、ある程度の検査も受けられる。
とても便利な病院だ。

6年前の12月、
私は一人、この病院へ向かっていた。
2,3日前にやや強い腹痛があり、
右手の生命線の末端付近が実に、嫌な形に変化していることにも気づいていたから。

その日はみぞれ混じりの雨が降っていたけれど、
大きめの傘を用意し、出かける事にした。

家からは私の足で10分くらい。
大した距離ではないけれど、
病院は丘の上だ。
途中からはずっと坂道が続く。

その坂に差し掛かる頃から、みぞれは完全に雪となり、
風を伴い、強く、激しくなってきた。
傘の向こうは一面の吹雪で、私の他に人の姿は無い。

――やめようか――
雪が舞う中、傘を両手で持ち、そう思った。
予約をしているわけでもなしーー
立ち止まり、引き返そうとした。
しかし、
その時、
何の脈絡もなく、
不意に母の顔が脳裏に浮かびあがった。

姿が見えたわけじゃない、
私の意識の中に、母の顔が浮かんだのだ。

私の母は、もう50年以上も前にこの世を去り、
最近では命日でもなければ思いだすこともない、
遠い人になっていたというのに。

私は再び歩き出した。
母が背中を押している。ともかく、行こう!と。

病院へ着くと、患者の姿はまばらだった。
内科の医師は聴診器を当て、問診をした後、
「エコーをとりますか……今日は空いていることだし」と言った。

結果、
腹痛はおそらく食あたりでしょうとのこと、
ホッとする私に、
「膀胱が腫れているみたいなので、このまま泌尿器科へ回ってください」
と、
その医師は言った。

――ボウコウ?
――泌尿器科?
――はれてる?

何が何だかわからないけれど、ともかく泌尿器科へ行った。
内科のすぐ隣にあり、癒し系の音楽が低く流れている。
患者は一人だけで、私はすぐに診察室へ呼ばれた。

20代後半と思える女性医師が私を笑顔で迎え入れてくれた。
彼女のデスクにはモニターがあり、その画面にはボタン電池の様な突起物が映し出されていた。

それを見た途端、私はようやく「はれている」の意味を理解した。
コトバは正しくあれ、と思う。特に医師のコトバは。
「はれている」は、「腫物がある」だったのだ。

「膀胱に腫物がありますね」
女性医師はにこやかに正しく、そう言った。

紹介状を書くので待合室で待っていてくださいと言われ、
癒し系の音楽が流れる、ガラス張りの部屋で数分の時を過ごした。
仕事のこと、スケジュール調整、するべきことを数えながら
母を思った。

私はその後、県立がんセンターを受診し、
膀胱がんステージ0(ゼロ)と診断され、手術を受けた。
初期であっても再発のリスクが高い、との説明どおり、
2年後にステージ0の再発があり、2度目の手術を受け、
何事もなく4年が経とうとしている。

家の近くの病院へは、最近はもっぱら眼科の治療で通っている。
あの雪の日以来、命日以外の日にも、
時々母の顔を思い出すようになった。




最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
ヘッダーの写真は、病院の植え込みに咲く梅の花です。