「ウェルビーイングのつくりかた」から、デザインの実践を考える
『ウェルビーイングのつくりかた 「わたし」と「わたしたち」をつなぐデザインガイド』(著者:渡邊淳司氏、ドミニク・チェン氏)を読んだ。
本作は「デザインガイド」とあるように、ウェルビーイングを「どのように実現するか」という具体的な実践のためのものである。私は、日々デザインに取り組む当事者でもあるので、その目線から本作の内容の実行策について書いていきたいと思う。
なお、この記事は本の概要文ではない。私の課題意識から内容を取り出し、私の意見をつづっている。本作が示す提言とはずれる点があるかもしれないが、ご容赦いただきたい。
企業活動とウェルビーイングの距離感
本作の内容に触れる前に、一般的な企業活動と、社会のウェルビーイングとがどのような関係を持ってきたかについて簡単に述べたい。
ウェルビーイングとは、その人にとっての「よく生きるあり方・よい状態(P.8)」であると本作で述べている。が、このような公益的なものは、日本企業の間では「本業とは別のもの」との認知が進んできたのではないかと私は感じている。
例えば、1980年代のメセナ活動がある。メセナとは企業が行う社会貢献活動の一つで、特に芸術・文化への支援のことを指すことが多い。コンサートや展覧会の開催といったものから、美術館・博物館の運営といったものまである。
その頃の活動を見返したり、当時建てられた美術館を訪れると、80年代の好景気に思いをはせることになる。一足飛びに言ってしまえば、メセナは業績の社会還元であり、急激な企業発展や経済成長で生じた社会的・文化的・環境的な影響に対するリカバリとも言えるのではないか。
以降、「CSR=企業の社会的責任(Corporate Social Responsibility)」や、「CSV経営=社会との共有価値の創造を軸とした経営(Creating Shared Value)」と、企業は考え方や範囲を拡大しながら社会との関係を模索している。同時に、SDGsのような国際的な枠組みからも、企業の姿勢を問われるようになっている。
しかし、これらを総じて見てみると、事業の外側から責任や意義を指摘されているようにも見える。ウェルビーイングのような論点は事業の外側に置かれ、儲けることとは一線を画したものとの認知があったのではないだろうか。
事業成果につながるウェルビーイング
一方、現在地点から考えるウェルビーイングの課題は、その流れとは異なるものと考えている。ひとつは具体的な事業影響がある市場変化であり、もうひとつは働き手に起因する変化である。ともに、脅威とも言えるし、機会とも言えるものだ。
市場変化として取り上げるべき点は、インターネットやITに関する社会の成熟である。企業と生活者が接するタッチポイントは、モバイル端末の普及も手伝い、デジタル化が完全に一般化した。成熟と表現したが、ふさわしい言い方をすれば「慣れ」である。
例えばSNSの功罪は周知のことでもあるし、フリーミアムやサブスクリプションのような取引形態や、シェアリングサービスのようなビジネスモデルも、どう利用すべきかという生活の知恵として日常の風景となった。
情報のパーソナライズがフィルターバブルを生み、社会の分断を助長する結果になったことも一般的に理解されつつある。消費者を騙すと言われるダークパターンもよく報道されるようになった。
一般的なITリテラシーがどの水準であるかは意見が分かれるところだが、成熟が進んでいく方向にあることについて、大枠は同意できるだろう。
企業と生活者のタッチポイントに関するリテラシーが上がれば、利用者の目は肥えてくる。情報取得のアルゴリズムやユーザーインターフェースのデザインが利用者認知や行動にどのような影響を与えるかの感覚も高まっていく。
企業活動や利用者接点が、自分のウェルビーイングを高めるか/損なうかについての感度も上がっていく。ウェルビーイングを毀損するサービスやUIに関しては忌避感情が増していくだろう。
これは、ITへの情報格差から、事業者優位に働きやすかった企業接点が、徐々に利用者優位に傾いていく構造的変化とも言えるかもしれない。
働き手のウェルビーイングと当事者性
働き手の確保も経営の重要課題となっている。少子化の側面もあるが、転職市場においてソーシャルネットワークを活用したITインフラが充実したことや、産業競争力の高い業態への人材移動が起こっている点なども踏まえ、流動性が確実に上がっていることも一因だ。
この背景は、働き手のウェルビーイングがより重要になっていることを示している。企業側は、優秀な人材を確保するための相応の待遇を準備するだけでは市場競争力を維持できない。平行して、従業員のウェルビーイングを配慮し、職務環境と事業そのものにも工夫を凝らす必要が出てきている。
サービスやプロダクトの利用者のウェルビーイングは、社員にとってのウェルビーイングにも直結する。
業務担当者は、当事者意識をもって利用者のウェルビーイングに思いを巡らせ仕事をすることになる。当事者意識というのは、自分自身もいち生活者の姿勢を表明し、ビジネス感覚と生活者感覚を両立させる行為だ。当事者意識は創造性を刺激する。この行為自体が自身のウェルビーイングに伝播していくものと見ている。
労働市場の観点からみても、利用者へのウェルビーイングへの配慮は、企業の優位性を保つ必須条件となるはずだ。
「ゆ理論」によるデザイン
前置きが長くなってしまったが、ここからが「どのようにウェルビーイングをつくっていくか」という本作の主旨に当たる部分である。
本作では、サービスやプロダクトにおいて、ウェルビーイングをつくるための方法論として「ゆ理論」を提言している。
「ゆ理論」は、「ゆらぎ」「ゆだね」「ゆとり」の3つの要素の頭文字をとったものであり、この3つの視点を押さえることで、ウェルビーイングを毀損しない、もしくは向上させるサービスやプロダクトが実現するというシンプルな原則である。
3つの要素はそれぞれの定義をあえて厳密にせずに、解釈の余地を残したゆるめの概念としている印象がある。一元的に、絶対的な「良いもの」を規定しないような、こういった設計思想そのものにもウェルビーイング的な考えを感じ取ることができる。
それでは、「ゆ理論」の3つの要素をそれぞれ見ていこう。
「ゆらぎ」をもった人間像に立脚する
まずは、「ゆらぎ」とは何か。
本作の記述は以下のようなものだ。
「ゆらぎ」の意味は2つあるという。ひとつは、人それぞれの年齢やジェンダー・経済状況・地域特性・価値観といった、属性的なゆらぎを持ったその人の固有性を尊重すること。
もうひとつは、人それぞれの心身の一時的な状況や、ライフステージの変化、成長・発達・老いといったゆらぎに対して、適時性のある有効なタイミングで支援することだ。
さらに、そのゆらぎを、人の集まりの中で相互に認め合うことで、個々人に重要な気づきが起こったり、人間的成長が生まれたりといったポジティブな共振作用も「ゆらぎ」として表現している。
では、「ゆらぎ」をデザインにどう活用すればよいのか。
ひとつは多様なユーザーが参加できるアクセシビリティを担保し、異なった価値観を包摂できる世界観を作ることだろう。加えて、そういったユーザー同士が対話し、共感したり価値観の変化が起こるような、ゆらぎの中に身を置ける体験を設計することも必要だ。さらにその体験が、自身のポジティブな「ゆらぎ(成長・発達)」につながっている具体的な認識が持てるとなお良いだろう。
また、適時性の観点では、ユーザーの不調や一時的なトラブルを許容し、支援の手を差し伸べるようなサービス設計も有効である。その支援をユーザーの相互扶助の中や、事業側のメンバーの自主性で実現できるようにするのも良い。加えて、サービスから離脱し、排除されてしまうのではなく、本人が希望する限り、積極的に「わたしたち」として合流している状態を維持することも大事だ。
実は、現状のデジタル世界は「ゆらぎ」とは相性は良くないのではないかと考えている。情報や体験のパーソナライズは、個人の価値観や興味関心を固定し「ゆらぎ」を抑制する懸念がある。過去訪れたウェブサイトの広告を追跡的に表示するターゲティング広告は、過去の関心事を追体験させ「ゆらぎ」を生み出さない。これらはユーザーの利便性につながるものでもあるので、一概に悪いものではないが、ユーザーの興味関心を固定化しえるものとの認識は必要だ。
とくにパーソナライズは、人口減少社会におけるサービス提供の決め手になる潜在性の高い領域であるため、ユーザーの「ゆらぎ」へは慎重な対応が必要になるだろう。
「ゆだね」のバランスを維持する
次に「ゆだね」について考えてみる。
ユーザーが自律性を実感しているかどうか。その上で、他者にゆだねられる部分をゆだねられるようにできているかが重要だという。そして、その自律と他律がバランスし、快適な状態を維持できているかどうかに価値があるという。
過度な自律性は、過剰な自己責任の感覚を持ったり、燃え尽きにもつながるだろう。一方で過度な他律性は、他者からコントロールされ、支配され、依存している状態を生むだろう。ユーザーの「ゆらぎ」の中でそのバランスを自分で取りながらも、健康的な「ゆだね」の状態をキープできるようにすると良い。
少し古いものだが「フックモデル」というものがある。デジタルサービスを成長させるためのユーザー行動のモデルである。
それは、サービスを毎日使ってもらうためのものだ。具体的には、サービス体験のどこかにトリガーを設置し、ユーザーに報酬(欲しい情報など)を期待させ行動を促す。そして、メリットのある体験を報酬として実感させた後に、ユーザーがサービス側に対して何らかの労力(投資)を行うようにする、というものだ。
例えばSNSにて、自分がした投稿への反応が気になってアプリを開き(トリガー)、画面をスクロールしたり検索したり(行動)して、情報を閲覧する。「いいね!」(報酬)がついていたりして嬉しくなる。さらに期待して別の投稿をしたくなる(投資)というような一連の体験だ。要するに「ユーザーが思わず毎日使ってしまうようにする」ための方法論である。
(詳細は、Hooked ハマるしかけ 使われつづけるサービスを生み出す「心理学」×「デザイン]」の新ルールを参照)
これは、想像の通りユーザーにとっての中毒性を促進させる。ユーザーの他律性を強化し自律性をむしばむ。このようなモデルやSNSそのものを悪と片付けるのはあまりにもナイーブであるが、少なくとも自律性を回復するような体験を部分的にでも設計することの意義はあるだろう。
「ゆだね」をデザインにどう活用するかについて、本作では「特定のプロダクトがどこまで使用者の役割や努力、権限をゆだねているかを考えること(P110)」という記載がある。
サービス側がユーザー体験を他律的なかたちで設計しきるのではなく、ユーザーの内発性を刺激し自律的にサービスに関われるようにしたり、さらに進んで、サービス側がユーザー側に支援を求める体験があっても良いかもしれない。
そういった自律と他律のバランスの中で、ユーザーが自分の役割を発見し、課題に対して自分ごと化が生まれる。ユーザーが自分でできないことを他者やサービスに任せたり、逆に引き受けたりという関係の中で、サービス側とユーザー側の双方にウェルビーイングを築く。そういった世界も想定できる。
これらは、サービスオペレーションの輪郭を曖昧に不確かにしていくことであり、運営コストやリスクが増大していく話にも聞こえる。しかし一方で、オペレーションの合理化は画一化の方向に向かっていくので、サービスのどこかを部分的に「ゆだね」の構造を取り入れ、差別化や独自の世界観を目指すという発想もできるだろう。
「ゆとり」ある体験を大切にする
「ゆとり」についてはどうだろうか。
特定の目的のために、過程や手段を犠牲にしないような振る舞いや、プロセス自体に価値を持とうとする考えが「ゆとり」である。同時に、集団の中で個々の「ゆとり」を尊重することで、集団・社会・地球といった様々なレイヤーでの「ゆとり」を模索していく態度も含まれる。
ここで勘違いしてはいけない点は、「ゆとり」とは目的の困難さのレベルとは無関係であるということだろう。目標のハードルを低く設定し、ゆとりを持たせようという話ではなく、困難な目的・ゴールだったとしても、適度な脱線やあそび、心身の状態を加味したゆらぎを受け入れることが「ゆとり」であるということだ。
むしろ、目的達成の難度が高いものほど「ゆとり」が必要であるともいえる。目的に向けて、多様な価値観を踏まえた対話ができること。意見を表明できる心理的安全性があること。「ゆらぎ」や「ゆだね」を許容した相互扶助の余地があること。こういったものから、それぞれの自分ごと化や自律性が生まれる。手段の目的化を防ぎ、創造的解決が促される。これは達成の確率としてもプラスに働くことだろう。
これは組織デザインやサービスデザインとしても応用できる。最短距離でなく、学習や困難なプロセスを楽しむ体験を折り込むことで、組織やサービスへの自分ごと化や共創的な関わりを持つことができる。
「わたしたちの感覚」と世界観
「ゆらぎ」「ゆだね」「ゆとり」に配慮することで、孤立した「わたし」ではない、相互に影響を与えあう「わたしたちの感覚」を取り戻す。本作ではこの重要性を強く説いている。
「わたしたち」は、お互いの価値観を尊重し、共生・共存・共創していく集まりのことだ。人間だけでなく、自然や生物も含んだ感覚であるという。
昨今はデザインの対象が複雑化したことも影響し、サービスやプロダクトの開発において、ステークホルダーマップという手法が一般的になっている。これは、サービスが社会に価値提案するための、人間と人間の関係や、価値や情報の流れを一枚の図として整理し、開発メンバー同士で共通理解を持ち、対応を議論するためのものだ。
ただ、ここに「わたしたちの感覚」は描かれない。ビジネスモデルを検討するためのものなので当然かもしれないが、デザインする者としては、そこに「わたしたち」の気配を感じ、描いていくことも必要になってくる。「わたしたち」はユーザーとユーザー、ユーザーとサービス事業者、ユーザーとその家族や友人、ユーザーと社会環境など、様々な捉え方ができる。
同時に、デザイナーが設計者としてそれを支配的にコントロールする姿勢ではなく、実行者・当事者として「わたしたち」の輪に入り、共生・共存・共創に関与していく態度も重要になってくるのではないかと考えている。
事業活動を「ケア」の空間と観る
本作では、「ケア」の考え方についても紹介がある。政治学者のジョアン・トロント氏の「ケアするのは誰か?」という著作を取り上げ、以下のケアの定義を引用し必要性を説いている。
「ケア」という言葉を聞くと、子どもや病人・けが人・高齢者といった「弱いもの」への対応をイメージされるだろう。しかし、ここまで話を進めてみると、人間は全員が生まれながらに「ゆらぎ」「ゆだね」「ゆとり」を必要とする、支援を必要とする弱いものと認識することができる。それは人間だけでなく、生態系であったり、社会システムであったり、民主主義といったイデオロギーも含まれるものだ。
これまで、事業やサービス・プロダクトを考える際には、市場の捉え方のさまざまなヒントがあった。
例えば、クレイトン・クリステンセン氏の「ジョブ理論」の捉え方では、製品やサービスは「顧客が片付けたいこと」に対応すべきとして、機能優位の製品開発ではなく、顧客行動や顧客の成長を起点としたものであるべきだと説明している。
もしくは、「カスタマーサクセス」の考えに立つと、顧客の成功のために伴走し、継続的な提案と価値提供をすると同時に、長期的な収益の確保を目指すという世界観がある。
サービスデザインの考えでは、事業者が顧客に対して価値を一方的に提供するものではなく、顧客に価値を提案し共創の中で磨き上げていくものだという考えがある。
では、「ケア」の考えをベースにおいたらどうだろうか。
事業者も顧客もその周囲の環境も含めて、全てを支援を必要とする存在として定義し、その「ゆらぎ」を認め、「ゆだね」に配慮し、「ゆとり」をもって支え合う構図が見える。その中で、経済的価値を含めたさまざまな価値とリソースが持続的に交流するような、事業やサービスの世界観が見えてくる。
日々のデザインの中で
私は、生活者やユーザーのウェルビーイングに寄与するサービスやプロダクトを新しく「生み出す」ことよりも、日本中のデザイナーが日々の仕事の中で「どのような配慮をし、自分が関与する事業や組織を少しずつでも変えていけるか」という点に、今は興味がある。
ウェルビーイングという論点を、資金余力がある事業者や高い志と能力を持った推進者だけのものにせず、あくまで「ふつうのこと」として扱い、そのための実務的なロジックを確立したいとも感じている。
一過的な開発プロセスに載せるのではなく、持続的なサービスの成長や運用の中から、ウェルビーイングに思いを寄せる「業務」を構築したいという思いもある。業務と表現するのは、特段の意識がなくても誰もがそれが実現できる状態にあるということだ。
本作で提言されている、「ゆらぎ」「ゆだね」「ゆとり」の3つの原則と、「わたしたち」の感覚。そして「ケア」の必要性。これらは、サービス開発プロセスのひとつの点検項目として特別に設定するというよりも、これらを常に頭の片隅において、無意識的に良い仕事ができている状態にすることが理想的なのだろう。(例えば「サービスデザインの6原則」や「UXデザインの5段階モデル」くらい、デザイナーの中に無意識に身体化されるのが良いのだろう。)
『ウェルビーイングのつくりかた 「わたし」と「わたしたち」をつなぐデザインガイド』から、さまざまな気づきを得ることができた。とくに、ウェルビーイングの実現にむけたHowの部分。「どのように実践するか」が示されている点が実用的である。
この記事では、本作の一部にしか触れられていない。本作では、多くの事例の中から「ゆらぎ」「ゆだね」「ゆとり」を多角的に分析しているし、「わたしたち」の感覚に関する記述も精細だ。興味を持たれた方は一読をおすすめする。
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