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◆読書日記.《アンドレ・ブルトン『ナジャ』》

<2023年4月1日>

 シュルレアリスム運動のリーダーとしてシュルレアリスト達を引っ張り、理論家であり実質的イデオローグとして君臨した「シュルレアリスムの法王」アンドレ・ブルトンの主著のひとつ『ナジャ』読み始めた。

 久々に美術系の本を読みたいと思っていた所、巌谷國士さんの『ナジャ論』入手したので、この際ブルトンの『ナジャ』と一緒にこれを読んで『ナジャ』を味わいつくそうという寸法である。

左・アンドレ・ブルトン『ナジャ』白水社版、右・巌谷國士『ナジャ論』

『ナジャ』はブルトンの自伝的小説と言われているが、「自伝的小説」というひと言では片付けられない仕掛けを色々と有している所が侮れない。
 何より本作は聞くところによれば、ブルトンのシュルレアリスムの方法論を利用して書かれた「シュルレアリスム小説」でもあるという。

 シュルレアリスム小説となると、明確な「理」は失われ、暗号めいたまた別の秩序が立ち現れてくる事となり、読者はその暗号解読にとりかからねばならない……という事で読んでいて「ワケワカラン♪」な状態にならないか少々心配だったが、今のところ面白い。やはりある程度シュルレアリスムの理論を知っていると解読もしやすいようだ。

 また、本書は巌谷國士さんが翻訳をしており、非常に詳細な解説も書かれているので『ナジャ論』と併読すればワケワカランは今回はぶじ回避できそうだ。
 しかし、このシュルレアリスム小説は他人の解説よりも「自らの解説」のほうが重要だ、というのは巌谷さんも書いている所でもある。さて、どうなる事やら。

<2023年4月3日>

 シュルレアリスムは元々ある種の革命思想なんだけれども、ブルトンの文章を読んでいると、やはりフランスというのは「革命」という言葉にある種の希望や期待といったポジティブなイメージがついているんじゃないかと思わせられる。
 それに対して我が邦ではどこか「革命」はネガティブなイメージがついている気がしてならない。

 フランス国民にとってみれば、長いあいだ貴族のあいだだけに占有させていたあらゆる種類の文化的なものを、革命によって自分たち庶民にも享受できるようになったという意味で「革命」というのはやはり希望なのだろう。

 ブルトンの革命思想について読んでいると、どこか同時代のサルトルを思い浮かべさせるものがある。
 サルトル的な「自由」の思想はアンガジュマンに繋がる。主体性。自ら動かなければ、希望も生まれはしない。

 国民全員が主権を持つ民主主義という制度の本質にあるのは、そういう考え方でもあるのだろう。
 国や行政のやっている事に興味を持たず、それを受動的に守っているだけでは、自分たちの望むような世の中にはならない。
 自分たちが「主権」を持っているのだから、自分たちが主体的に働きかけて、自分たちの国をどうするのか決めて、自分たちの権利を自ら主張しない限り、世の中は自分たちのものにはならない。理不尽な事が起ころうと、世の中に不満があろうとも、他人の決めた事に唯々諾々と従っているよりない。
 だから民主主義には「自分たちが権力者なのだ」という意識が必要なのだろう。

 フランス人は、自分たちが主体的に動いて、自分たちの力によって、自分たちが権利を獲得したという実績があるからこそ、革命や民衆運動、デモ、ストライキといった権利を主張する活動と言うものはネガティブなものではないのだろう。

 翻って、わが邦の歴史の中で未だかつて庶民が革命を起こして時の政権を転覆させた事はない。
 けっきょく日本の政治史と言うのは、昔からずっと支配層の食い合いで成り立ってきていたわけで、明治維新でさえ武士間での権力闘争でしかなかった。
 政治や行政がどこか「お上のやる事」であって、自分たちの生活からは多少の距離のあるものであるかのような感覚があるのも、それらがずっとわれわれ庶民のものではなかったという歴史があるからなのかもしれない。
 革命や民衆運動、デモ、ストライキと言うと、どこか「人騒がせな我がまま」であるかのような、何故かネガティブなものであるかのような考え方がついて回るのも、こういった日本の歴史と無関係ではないという気がする。
 先日読んだ『シニア右翼』でも、日本では民主主義教育が不徹底に終わった事が指摘されていた。

 日本の現状は未だ民主主義的な意識と程遠い所にあると思わせられる。

<2023年4月4日>

<ナジャ>――ロシア語で希望を意味する言葉(=ナジャージダ)のはじまりだと、その女は言った。それを自らの名と自称しているのである。

 ナジャ。

 ブルトンを惹きつけたパリの神秘的な女。そして、それと同時に誰でもない、誰でもある女。最後まで本名の分からなかった、匿名の女。

 ナジャ。それはブルトンの自伝的小説であると同時に、文字通りの「暗号」。ブルトンは自伝をそのまま自らさえ答えの知れない暗号にした。

 つまり、先日言ったようにこの自伝的小説が自伝的小説であると同時に「シュルレアリスム小説」であるという仕掛けを持っているという事の意味がそれだった。キリコがある種の物体配置に驚いたように、作家にある種の啓示を与える偶然的なエピソードの謎に、その暗号に何よりまずブルトンが驚かされるのである。

 彼は、いくつもの「意味は分からないが、印象的であった自分のエピソード」を紹介する。

 そして、おそらく彼にとって最大の驚きが、その「ナジャ」と名乗る女性であったのだろう。自伝的小説『ナジャ』は、中盤から自伝的恋愛小説のような様相を呈し始めるが、これは「恋愛」が眼目になっているわけではない(おそらくそのくだりを愉しむ読者は多いだろうと思われるが)。

 ブルトンは、ナジャのその特異な言動に振り回される。
 しかし、論理的でない、いちいち支離滅裂な「ナジャ」の言動に驚かされるからこそ、彼女の言動はブルトンの「何かしら」を指示している。

 そこにハッキリとした主知主義的な意味(伝統的な西洋の思考として、この時期の様々な思想家がその転覆を企てた、あの西洋的主知主義である)が採れるわけではない。

 だが、それにも関わらず、その意味不明な言動に彼は心動かされる。
 心動かされるからこそ、それは何かを指示する星(シーニュ)なのだ。新たな意味。「新秩序」としての神秘的な謎。

 彼はそれをそのまま、彼自身にも分からない「暗号」と受け取ったわけである。

<2023年4月5日>

 けっきょくブルトンの主張していた「論理的には無秩序に見えるさまざまなイメージの配列の中に、実は私たち全てに関わるかもしれない、何か「新しい秩序」の萌芽が含まれる事を実感した(巌谷國士の解説文より引用)」というオートマティスムの実験は、『嘔吐』のロカンタンのあの感覚と同じようなものにすぎないんじゃないかと思う。

 この時期の20世紀初頭の思想家によく見られるのは、古代ギリシアから続く西洋の伝統的な主知主義からの脱却というのがあったように思われる。
 そのひとつがヘーゲルからの脱却というのもあっただろう。
 ヘーゲルは西洋的知の集大成と言う事で、あらゆる西洋的知を綜合した『エンチュクロペディ』を著して19世紀西洋思想の頂点を成し、西洋思想に巨大な足跡を遺した。

 彼の巨大な影響下にあった西洋では、伝統的な西洋の主知主義の頂点をなすヘーゲルを乗り越える事でしか、その先に行く事はできなかった。
 だからこその「新秩序」に思いをはせた思想家は多かったのだ。

 世界に多大な影響を与えたマルクスでさえもヘーゲルの乗り越えをはかっていたし、20世紀最大の思想家と呼ばれたハイデガーも古代ギリシアまでに遡及して伝統的西洋思想を引っ繰り返す事でヘーゲルを乗り越えようとした。

 サルトル『嘔吐』におけるロカンタン的な見方というのも、ある種の伝統的西洋思想を引っ繰り返す見方だと言う事もできるだろう。
 西洋的な物の見方というのは、分類し、種類を整理し、それに名前と意味を張り付けて「意味」を一意に固定する。

『嘔吐』の象徴的にとりあげられるマロニエの木の根のシーン。
 マロニエは和名はセイヨウトチノキである大型の落葉樹。ドーム状の樹冠を持っていて、その葉は7枚が向かい合ってついており、花は白で赤い斑点があり……という、人間がその木に与えた「分類」という、西洋人が作り上げてきたあらゆる意味を引っぺがして、その形そのままの「この、それ」となった物体を見たロカンタンは、吐き気を催すのである。
 その時、ロカンタンは明らかに西洋的な秩序の外に踏み出し始めていて、ブルトンらが夢見た「新秩序」に片足を突っ込んでいるのである。

 この時のロカンタンは、ある偶然的な物体の配列に驚くキリコや、ナジャの言動に新たな美を認めるブルトンと、近い位置にあったと思うのである。
 ロカンタン的な見方は後にサルトルによって実存主義に接続する事となるが、ブルトン的見方というのは、そのアート・ヴァージョンというわけだ。

 ブルトンのオートマティスムの思想は、自分たちが肩まで浸かっている西洋的思想形態から脱却するため、自らに構築された現実原則を引っぺがして無意識を露呈させようとする試みであったろうし、それによって引き出されるものが、理知的な意識では得る事の出来ない「驚き」であり、未だにその形が見えない「新秩序」であった――ブルトンらが目指していたものとは、そういったものだったのだろう。

 ブルトンがシュルレアリスムによって成そうと考えていた革命思想と言うのは、そういう「意識革命」の一面もあったのである。

◆◆◆

 ところで、アンドレ・ブルトンとジャン=ポール・サルトルはけっこう共通点があると思っている。

 同じフランス人で、9歳差で同じく20世紀に活躍した著名な人物であるからという理由だけではない共通点があると思うのだ。

 この二人、意外と思想的には近い位置にいた人だったんじゃないだろうか。

 先程言ったように『嘔吐』のロカンタン的な見方と、ブルトンのシュルレアリスムの思想とは共通するものが見られるし、両者とも同じく共産主義に傾倒していたがソ連には共感せず、フランス共産党とも離別する事になる。
 サルトルはボーヴォワールと結婚のような関係を築きつつも互いの自由恋愛については、それを許容する「契約結婚」をした事で、ボーヴォワールを内縁の妻的な位置に起き乍ら他の女性を口説いていたと言われているが、ブルトンも『ナジャ』では、妻がいながらもナジャという女性とどうどうと恋愛関係を結んでいる――という女性関係のだらしなさも何だか似ている。

 そしてぼくは、どちらも割と嫌いなタイプだ(笑)。

<2023年4月7日>

 アンドレ・ブルトン『ナジャ』読了。

アンドレ・ブルトン『ナジャ』白水社・白水Uブックス版

「シュルレアリスム小説」という触れ込みだったので、事前に巌谷國士の解説を読み込んで、読後、副読本として続けて巌谷國士の『ナジャ論』まで読もうと、かなり構えて読み始めたのだが、実際に読んでみたらぼくとしてはかなり読みやすい本であったという印象が強い。

 というのも、ブルトンは詩人であったにもかかわらずかなり思考パターンは「理」に寄っているという感覚があったからだった。
 だから『ナジャ』の登場人物であるナジャ自身の言動については依然として謎めいているとはいえ、ブルトン自体の考え方は「理」で説明がつくのである。

『ナジャ』はブルトンの人生の中の幾つかのエピソードを切り張りして作られたエピソード集的な自伝に、ブルトンが自らのコンセプトを解説した序文と終章をサンドイッチした「半自伝/半理論書」としても読める。

 しかしながら、こういった「理屈」を連ねてしまう所に、ぼくはブルトンが生涯をかけた西洋的主知主義的な秩序体系からの脱却の試みの失敗を見てしまう。彼はけっきょく「理」から逃れる事はできなかったのだろう。

 しかしだからこそ、ブルトンが「理」から自由に逃れ出ているかのように神秘的な言動を繰り返し、彼をさんざん振り回した<ナジャ>という女性に惹かれたのが良く分かる。ナジャという存在は、彼にとっての神託を与えてくれる文字通りの巫女であったというのは言うまでもない事だろう。

「あたしの呼吸がとまると、それがあなたの呼吸のはじまり。」
「あなたがお望みなら、あたしはあなたにとって何でもないものに、それとも足跡だけのものになるわ。」
「ライオンの爪が、葡萄の木の胸をしめつけています。」
「薔薇色は黒よりもいい、でもこの二つはよく合うの。」
「神秘を前にしているのよ。石の人、わかってね。」
「あなたはあたしの主人。あたしはあなたの唇の端で息をついたり息をひきとったりするただの原子。涙にぬれた指先で、静けさに触れてみたい。」
「どうしてあの秤は、炭の球のいっぱいつまった暗い穴のなかで揺れていたのかしら?」
「自分の思考に靴の重みを負わせてはいけない。」
「あたしには何もかもわかっていたの。あんなに自分の涙の小川を読みとろうとしたんですもの。」

アンドレ・ブルトン『ナジャ』白水社・白水Uブックス版・P.118-119より引用

 ナジャは最終的に、精神病院に送り込まれる事となる。

 数か月前に人が来て、ナジャは気が狂っていると私に教えた。どうやら、自分の住んでいるホテルの廊下で常軌を逸したふるまいに出たらしく、ヴォークリューズの精神病院へ送りこまざるをえなかったというのだ。

アンドレ・ブルトン『ナジャ』白水社・白水Uブックス版・P.136より引用

 ブルトンにとって、ナジャを社会から排除しようとするその当時の精神医学という学問というものに、ある種の西洋的主知主義の「欠点」を見ていたのであろう(当時の精神医学に社会統制的な権力を空かし見ている所、フーコー的でもある)。
 その秩序に従うと言う事は、ブルトンがナジャの言動に見たある種の「美的感覚」を全て否定する事であった。
 ブルトン思想におけるシュルレアリスムの「意識革命」につながる動機の萌芽が、こういった所に見られる。

◆◆◆

 美とは痙攣的なものだろう、さもなくば存在しないだろう。

アンドレ・ブルトン『ナジャ』白水社・白水Uブックス版・P.163より引用

 これは『ナジャ』の最後に掲げられた一文である。
 この一文だけでは意味が良く分からないが、『ナジャ』を読み終えるとこの一文については非常に多くの論理的な言葉が費やされ、その結論としての一文だというのがわかる。
 多くの意味を含んで固定的な定義をつけられるような言葉ではないが、ブルトンの説明によって「痙攣的な美」という考え方は、われわれにもわかるちゃんとした意味があるというのが理解できるようになっている。

 ぼくなりの解釈を示そう。

 ブルトンが主張している「美」を感じる感覚というものは、ある種の一目惚れのようなものと考えてもいいかもしれない。
「一目惚れ」というのは、瞬間的な経験であって、ある一定時間ずっと「一目惚れ」しているわけではないし、ひとりの女性に何度も何度も「一目惚れ」をするといったような再現性のあるものでもない。
 その場限りの一回性しかもたない、突如現れる、驚きにも似た体験――のようなものではないか。

 初めて接した絵画に「美」を感じる事があったとしよう。
 惚れた絵画を二度三度と見て愉しむのは、それを初めて見て感じた衝動(一目惚れ)の追体験を求めるようなものであって、到底初めて接した時の「痙攣的な」感動に比する事のできるものではない。それは初めて会った時のときめきを想起させて、愛おしんでいるようなものなのかもしれない。

 あらかじめ予想できるものではなく、刹那的に襲われる感情であるからこそ「痙攣的」であり、それは長続きするものではなく、再現させようとしても全く同じような感動を得られるものではない。

 西洋で伝統的に「美しいもの」であるとされてきた様々な「美」の形式――それは例えば遠近法であったり黄金分割であったりシンメトリであったり写実主義であったり――を否定し、新たな「美」の秩序であるシュルレアリスムの美を求めていたブルトンであったからこそ、彼の定義し求める「美」の形が、そのような「痙攣的」なものである、と断定する事に意味があったのではないだろうか。

◆◆◆

 ブルトンの自伝的シュルレアリスム小説『ナジャ』に「あらすじ」を付す事に、あまり意味は感じない。

 人生を起承転結のある物語として理解するというのは非常に分かりやすい事ではあるが、実際に人生には解読できる「意味」もなければ、物語のような分かりやすい「あらすじ」などはない。

 人生というのはそれぞれに意味のつながりのない散文的なエピソードの連なりであり、そんな散文的な意味のないものに「意味」を感じ取り、物語的ではないものに「物語」を見るのが人間と言うものである。

 例えば、人間は毎日必ず寝るのだから「彼の人生は就寝と起床の連続であった」という「意味」を与えても「間違っている」とは言えない。毎日必ずトイレに行って用を足すのだから「彼の人生は排泄行為によって占められていた」という「あらすじ」を与えたとして「それは適当でない」と誰が言えるのか。

 ブルトンの『ナジャ』は、何もブルトンとナジャだけのエピソードを並べただけのものではない。
 本書の序盤ではブルトンが、自分の意志で起こした事ではない体験で特に印象に残っているエピソードについて、順序だてたりはせずに頭に浮かんだものを気紛れに書いていく、というやり方を試している。こういう方法を採っているからこそ、ブルトンは本書をシュルレアリスム的な方法で書いたと言っているのである。
 何故このようなエピソードを連ねる必要があったのか。ブルトンはこれについても、ヴィクトル・ユゴーのエピソードを例にとって丁寧に説明してくれている。

 ユゴーはその生涯の晩年に、ジュリエット・ドゥルエとつれだって、千度目にもなろうというおなじ道の散策に出かけては、大小二つの門のある屋敷の前に馬車がさしかかったときにだけ、静かな瞑想をふと中断して、ジュリエットに大きいほうの門を指さしながら、「馬車用門だよ、きみ」と言い、それに答えて彼女が小さいほうの門を示しながら、「徒歩用門ですわ、あなた」と言うのを聞いたものだった。それから少し行って、二本の樹が枝を絡みあわせている前に来ると、また「ビレモンとバウキスだよ」と言い、これにはジュリエットが何も答えないことを知っていたという、しかもこの不可思議な、この胸をうつ儀式が、何年ものあいだ、毎日くりかえされたという確信が得られるわけだが、ユゴーの作品の能うかぎり優れた研究といえども、彼がかつて何者であるかについて、どうしてこれほどよく解らせ、驚くばかりに感じ取らせてくれるものだろうか?

アンドレ・ブルトン『ナジャ』白水社・白水Uブックス版・P.7-8より引用

 こういったエピソードこそが、その人を象徴するのであり、ユゴーが自分の「小説家としての人生」を自らの意志で送った自らの「物語」の「外」にある、ユゴーが拘った言動のエピソードというものに、その人というものが表現されているのではないか。
 だからこそ、ブルトンその人を示すために、彼は自分の人生の中から秩序だった「物語」とはならない、「外」にあって自分の拘りのエピソードを思い付きで列挙してみせたのだ。

<ナジャ>とのエピソードも、その一環なのである。

 私とは誰か? ここでとくにひとつの諺を信じるなら、要するに私が誰と「つきあっている」かを知りさえすればよい、ということになるはずではないか?

アンドレ・ブルトン『ナジャ』白水社・白水Uブックス版・P.5より引用

 ブルトンが小説『ナジャ』を「私とは誰か?」という文章から初めている事からも分かる通り「ナジャの神秘的な言動に心動かされる者」という所にも、ブルトンその人が何者であるかという事を示しているのである。
 ジャック・ラカンも言うように、人間の自我は自分ではない他人が既に作り上げた常識や言葉や概念といったものを取り込んでいく事によって作り上げられていく。
 まさにその人が「私が誰と「つきあっている」かを知りさえすれば」その人が示せると言う事にはならないか?

 そういったコンセプトがあった上での、思い付きで書かれたエピソード集。それが『ナジャ』なのである。
 だから『ナジャ』には、「あらすじ」があるようで、「あらすじ」はない。

 そして、人生の中で体験した事の中から無意識に並べられたエピソードに何の「意味」を見るのか――それに決まった「意味」など元からないのだから、『ナジャ』は自伝的小説であると同時に、著者のブルトン自身にとっても答えの分からない「暗号」であり、その答えは読者にも開かれているのである。

◆◆◆

 さて、と言う事で自分が事前に感じていたほど『ナジャ』は難解な読み物ではなく、ブルトンのコンセプトは以上説明して来たように非常に明確だ。

「暗号」になっているのはその「中身」で、これは今後、幾つかの挿話を思い出しながらであったり、二度三度と本書を読み返しながらでも、ゆっくりと愉しんで解いていきたい心躍るパズルになっている。

 しかし、そうなると手に入れた巌谷國士の『ナジャ論』は、せっかくの心躍るパスルに、解答する喜びを得る前に模範解答のようなものを明かしてしまう事にならないか、というのが逆に心配になってしまう。
『ナジャ』読了直後に読み始めようと思っていたのだが、さて悩みどころだ。

 ちなみに、説明して来たように本書はある程度の知的努力の必要な作品であり、「あらすじ」などないも同然の読み物なので、おそらく小説に「ストーリー」を求めるような読者は本書を読んでも「意味が分からない」という事となろう。お勧めはしない。


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