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can(キャン)とcan(カン)の話―英語にもある多様性

会ったことはないのですが、私がSNSでつながっている人で、どういうわけかいろいろな国・文化の人と出歩いていて、文化の違いに気がついては報告している人がいます。異文化や文化差は私が常に関心を持っていることなので、その人の投稿はいつもついつい興味を持って読んでしまいます。
その投稿に、ごく最近あってこれは良くないなと思ったのが、英語教師の話です。なんでも、イギリス出身の先生なためにcanを「カン」と発音するのですが、日本の学校ではアメリカ英語なので「キャン」と発音するように、と言われているそうです。
なんだそんなこと、と思われましたか? が、これは私は個人の権利や尊厳に対する侵害と取り、さぞかしその先生は悩まれていると思うのです(反論したくても日本語が十分でない、相手は多分英語が分からないのでできない状態)。日本で英語を学んでいると、一定の「標準英語」というものがあり、あたかもあらゆる人がそれを話すかのような幻想を抱きます。が、それは明らかに間違いです。ことに英語は国際語となっているため、そのなかでも「標準的」と言えるものにもいくつかある上、さらにバリエーションが無限にある状態です。とは言え、実際に実社会で英語を使うような中・上級者になる前には、比較的分かりやすい一定の英語の発音に慣れた方がいい、というのは常識としてあるかと思います。

私は英語を使って仕事をしていますが、お客さん(心理療法やカウンセリングのクライアント)はいろいろな国や文化から来ており、英語の範囲で言えばアメリカ、イギリス、インド、その他(英語が母語でないけれど英語を話す人、ナイジェリアの人、日本人なのになぜか英語でセッションをしている人、など)などさまざまです。とっつきやすい人ととっつきにくい人がいますが(中にはそれこそ英語の先生がいて分かりやすく話してくれたりと)、何回も会っているうちにこちらも慣れます。それは相手が日本人で日本語で話していてもそうで、かならずしも「方言」でなくても、その人の話し方や声に馴染むには、しばらくかかるのです。特に心理療法では、そうしたお互い馴染んでいくこと、お互いを知っていき関係を形成していくことが重要なプロセスとなります。
一番困ったのは20年以上所属している学会でニュージーランドの人に会ったとき。とても良い人だったのですが、正直言っていることの50%くらいしか分からず、衝撃を受けました。そのときはもう一人、アメリカの人がいたために3人で「歓談」していましたが、私は分かったフリをしてしまいました・・・
ほかの例としては、あるとき山手線のなかであるおじいさんの隣に座って、人のいい人でおしゃべりになりました。ところが宮崎出身だというそのおじいさんの言葉は非常に分かりにくく、日本語なのにおそらく30~40%くらいしか分からなかったのです! にもかかわらず、会話自体は楽しかったのですからある意味不思議です。

さて、最初の話に戻りますが、なぜイギリス人に「キャン」と言えと言うことがその人を尊重しないことになるのでしょう? 誰にでも母語、母国語というものがあります。この「母」の字は、言葉は最初母親(か、それに代わる養育者ーここではとりあえず「母親」と書きます)から学んでいるから、ということにもなります。まだ言葉が分からない・出ないうちから母親は子どもに話しかけ、そうしたやり取りのなかから言葉をだんだんと学んでいきます(「言語獲得」と言いますが)。人の「母語」の背景にはそうした母親のイメージややり取りの蓄積があるのです。以前淡路島に行ったとき、幼稚園くらいの子が実にうまく関西弁を話していて(当たり前なのですが)、うまいな~、真似できないなと思ったことがあります。
イギリス英語とアメリカ英語の違いはcanの発音だけではなく、その他も発音や綴りなどの違いもあります。canのところだけ「キャン」発音にするとして、全体としてうまくしゃべれるでしょうか? 多分無理だと思いますし、ネイティブの英語というのは「英語」だけ切り取られて扱われるべきものではなく、その教える「人」(先生)そのものというのもあると思うのです。それがまさに対面による教育の真骨頂というものです。

日本はどうも標準化したり、多様性を受け入れない傾向が強いと感じてしまいます。たとえば関西から東京に出てきた人で、そのまま関西弁という人もいますが、標準語に切り替えてしまう(そうしろと会社で言われたという人までいましたが)人も少なくありません。これは、その人の成り立ちや過去への「つながり」を絶ってしまうことでもあり、メンタルヘルス的にはあまりおすすめではありません。人生の変化はいろいろあれど、「そのまま」でいられることは良いことでもあるからです。谷崎潤一郎の『細雪』のなかに、東京は渋谷(当時は「郊外」的な感じだったらしく衝撃です!)に引っ越した子どもたちが、半年ほどで東京語を話すようになるという話が出てきましたが、今に始まった話ではなく、どうも「違った話し方」をする人に寛容ではないのかもしれません。(帰国子女とかにも厳しいですね。)
日本に限った話ではないですが、アイヌなどの先住民族に日本語を話せと強要するとか、日本語でのみ教育するというのも、ルーツや民族性を破壊する行為です。最近になってようやく、できるところからアイヌ語を使ったり、学校教育でも復権が見られたりとあるようですが、もしかしたら根絶やしにならないギリギリの線のところにいるのかもしれません。
こうしたことは、多様性という観点から見れば喪失です。方言やお国訛りなどの、国のなかの言語のバリエーションもですが、イギリスとアメリカといった「国」単位ではさらに大きい文化のユニットであり、同じ(に日本人には思われる)英語の背景も異なります。これを尊重することはすなわち個人や文化を尊重することにつながるのです。

海外に住んだことのあると、この辺のところは分かりやすいかと思います。私はアメリカが長かったですが、日本人の場合、アメリカに行くと「アジア人(の一民族)」と扱われる場合もあります。これは、多くの人にとって「十把一絡げにされた」(=自分の民族アイデンティティがごまかされた)という体験となるのではないでしょうか。というか、「外」に出てはじめて日本人とは、アジア人とはと考え出すのかと思います。もちろん、最初から「日本人」として扱ってくれる人もいますが、そうした人たちはなんらかの日本とのつながりや理解があることがふつうです。
まぁ、とは言いながら私も自分があまり馴染みのない地域(たとえば東南アジアやアフリカなど)から来た人たちは、あまり区別がつきません。いわゆる「アフリカ人」と、「アフリカ系アメリカ人」はなんとなく違うな~と思っています。アフリカ系アメリカ人の方が、やはり態度や服装がアメリカナイズされている感じです。が、これも見かけで判断しているだけなのでもしかしたら間違っているかもしれません。文化的に違う人たちとの関わりが増えることによって、こうした区別はつきやすくなっていきます。
多様性、多文化の感覚を養っていく、こうした学びや体験には終わりがないと言えるでしょう。ややこしいな~と思われるかもしれませんが、同時にもし楽しいとか興味があると思うのであれば、少しずつでも積み重ねていくのがいいかと思います。。

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