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人類に益する自分となるには 【歴史を学ぶ意義】

古代中国の春秋時代において、国力=民力でした。
民力とは、具体的には兵力であり、財力とも言えます。
そのため、国君は民を大事にし恵みを与えました。
これが「仁政」の本質です。
仁の徳とは本来このようなものです。
民は自然(天地)を耕し、食糧を得ていますから、国君は民力は天地の力が具現化したものとして懼れ敬い、天地のバランスを保つように努めました。
ところが、時代が移ろいゆくにつれ、このバランスが崩れていきます。
国君に奉仕するはずの諸侯が私利私欲を図り、私腹を肥やすようになったからです。
民や土地を私有化することを始めとして、財力や兵力までも私有化していました。これによって、国君は実質的な権力を失ってしまうため、当たり前のように下剋上がまかり通る諸侯同士による戦国時代へと推移しました。
『左伝』を読むと、諸侯が私腹を肥やすプロセスがよくわかります。
魯国において、当時王族であった季氏・孟氏・叔孫氏が民を私有化し、兵権を握っていた様子が記されています。財力や兵力も私有化されていたため、公室の領地は4分の1となるまで減少していたそうです。(昭公5年の記事より)
税のシステムが私有化されてしまうと国力は弱体化していきます。
国政の方向性は私的な欲望を満たすものとなり、公的正義が失われるからです。
諸侯は財産欲や権力欲を満たすために、一族の繁栄だけを目指すようになり、結果、勢力争いや戦いに明け暮れる日々となります。(戦国時代)

これは規模こそ違えども、現代社会も同じかもしれません。
各国が国益に終始し、人類全体の利益(公益)を考えない様子に酷似しているように思えるからです。
領土欲や財産欲、金銭欲などといった各国の利害が激しくぶつかり合うことで戦争状態に陥り、人々の生命や財産が奪われていくのは、古代中国の時代と全く変わりません。
このような状況をみるにつけ、人類は数千年経っても、本質的な部分は全く進歩していないことがわかります。
春秋戦国時代という私利私欲に明け暮れた闘争状態を終わらせたのは、秦の始皇帝がもたらした圧倒的な軍事力でした。
混沌とした時代を終わらせるものは、それらの共通の敵となる「別次元の強大な力」です。
そう思うと、現代において、全人類規模の問題(地球温暖化や異常気象など)が起きているのは、国家同士が戦ったり、競争したりしている状況を劇的に転換させるための天の計らいであるような気がしてなりません。

日本では聖徳太子が活躍した飛鳥時代に、豪族同士が闘争する時代から、天皇を中心とする中央集権体制が確立しました。
聖徳太子以後の1400年もの間、途中、貴族や武士たちによる一部の動乱はありましたが、天皇中心という基本的なシステムは変わっていません。
むしろ、「天皇」という国家元首の存在を前提として、天皇から認められることによって、自分たちの優位性を周囲に示そうとすることが繰り返し行われています。
しかし、このような国家体制は、日本独自のものであるということを常に頭の片隅に留めておく必要があるでしょう。
世界を見渡せば、中国の春秋戦国時代と変わらないような状況が今もなお続いているからです。
日本人の国際認識の甘さは、日本独自の国家体制が影響しているような気がしてなりません。
いたるところで川が流れており水資源が豊富な日本では、何もしなくても水と平和はタダで手に入ると思っている人が大半なのではないでしょうか。
このような日本の常識は、世界の非常識です。

『左伝』などから中国の歴史を学び、英語などの他言語を学ぶことで各国の歴史や文化を学ぶ意義は、世界の人々が、多くの犠牲の上に、いかにお金や手間暇をかけて平和を実現してきたかを知ることと言えます。
マスコミの情報などによって他国の戦争や飢餓貧困の状況を知ることも、歴史を学ぶことも、私たちにもたらしてくれる効果は変わりません。
それらによって、「他者の痛み」を知り実感できるようになることが、人類の幸福と世界の平和を実現するための道へとつながっていくような気がします。


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