田中美佳子
2008年に行ったノーム・チョムスキーのインタビューのレポート
19世紀末にNY州で生まれた奴隷解放運動家の伝記。天啓を受け「旅する真実の子」と名乗ったアメリカのジャンヌ・ダルク、ソジャーナ。
ジャック・ロンドンが1912年に書いたポスト・アポカリプス小説。翻訳者の住むサンフランシスコ・ベイエリアが舞台です。
今回の機会で一番印象深かったのは、チョムスキーは私と話をするつもりだったのに対し、私はチョムスキーにインタビューをする用意をしていたという、二人の心構えの違いだった。 思えばオークションのタイトルが「チョムスキーと政治か言語学について話す」だったのでチョムスキーのほうが正しいのだが、私はこちらから質問をすることだけに専念していて、すっかり聞き手にまわってしまった。というのも、私からチョムスキーに話せることなどほとんどないという思い込みがあったからだが、チョムスキーは折に
2008年4月下旬-キャロルさんからの手紙 インタビューの翌日、チョムスキーからお礼のメールがあった。キャロルさんは喜んで、日中ずっと座っているダイニングのテーブルに花を飾っているとのこと。迷惑でなかったようなのでほっとした。さらにベブさんから、キャロルさんが礼状を送りたいと言っているので住所を教えて欲しいという問い合わせがあった。病人にそんな負担をかけるわけにはいかないと一度は断ったが、キャロルさんはリハビリを兼ねてカードを書くことを日課にしているという。ペンをにぎるの
ICレコーダをオンにして48分たったところで、ベブさんが部屋に入ってきた。「お話中申し訳ありませんが、もうお時間です」。面会時間は一人45分ということにしておいて実質50分、その間の10分でチョムスキーは自分の用事をすませるという流れなのだろう。ちょうどリストしてきた質問を聞き終わったところで、私のほうとしてもきりがいい。最後にお礼を言って、Understanding Power を初めて読んだときの感想を伝えた。 「私はアメリカに来てから地方都市のいわゆるクオリティ・ペ
C:チョムスキー、T:著者 T:それでは、これから45分お話をさせていただきます。 C:はい。翻訳に関してですが、なにか問題はありませんでしたか? T:脚注に出ていた資料が見つからなくて苦労したことがありました。*1 C:あのウェブサイトはとても良くできていたようですが・・・。 T:はい。でも一つ、コーネル大学にしかないと思われる資料がありました。小さい子供がいるものですから、コーネルまで行くことができなかったんです。 C:コーネルにだけあるとは・・・何についての資料ですか
いよいよアポイントメントの15分前。入館にはバッジかなにかがいるのかと思ったら、受付はなくてノーチェックだった。指定された階にエレベーターで向かう。エレベーターを出たところにあるホールは、外観に負けず劣らず都会的なデザインで明るい。真ん中のテーブルには、大胆な色使いの花が生けられている。さて、ここからどうしたものか。人気がないのでロビー奥の廊下をふらふらしていると、東欧系とおぼしききれいなお姉さんが出てきた。 「チョムスキー教授とお約束を頂いているんですが、先生のオフィス
当日前夜まで原稿を作っていて、翌朝プリントアウトしようとしたらなんとプリンターの調子がおかしくて印刷できない。四苦八苦しているところに子守役の夫が仕事から返ってきて、あちこちいじったあげくになんとか印刷してくれた。よりによってなんでまたこんなときに壊れるかなとうらめしく思うが、準備に余裕を持っていなかった私が悪いのだ。刷り上った原稿を見直す暇もなく、あわてて家を飛び出した。 地下鉄のMITの最寄り駅、その名もケンダールMITに着いたのはインタビューの一時間前。車や電車は
2008年4月上旬 一ヶ月半も期日が延びてゆっくり準備を整えられると思いきや、仕事が忙しくなって直前までキリキリ舞いをする羽目に。結局学生時代の試験勉強と同じく、当日の3日ほど前からあわてて準備にとりかかった。 『現代社会で起こったこと』の編集担当者にインタビューすると伝えると、表紙に載せるための顔写真を撮影することと、いくつかの質問をすることを依頼された。インタビューの内容は私個人のウェブサイトに掲載し、抄訳をあとがきに反映させればいいという。写真とインタビューのレポー
2008年2月 予定日の直前になっても何も連絡がないので、2月27日にベブさんに確認のメールを入れてみた。すると「先生が喉頭炎にかかってしまったので、できれば3月に延期してほしい」。うわあ、大変だ。すぐに「私のほうは3月でもかまいませんから、ゆっくり休んでもらってください」と返信。 びっしり予定が入っているところで病気になったら、調整がとても大変に違いない。私は近くに住んでいるし会えるのならいつまででも待つが、こういう場合海外からわざわざインタビューに来る人はどうするのだ
2007年11月-2008年1月 すぐにベブさんにメールすると、11月8日に返信があった。「予定が詰まっているので、できれば1月か2月にしてほしい」。翻訳をできるだけ先に進めておきたいのと、準備に時間がとれたほうがいいと思い、2月希望と返事をした。すると、年明けにまたメールをするようにとのことだった。よっぽど忙しくて時間を取るのが難しいのだろう。 次に連絡をしたのが1月3日。今度はいよいよ2月に空いている日にちと時間の候補を5つ知らせてくれた。15分刻みでアポを入れて
2007年10月下旬 数日待ったが、レジストからはその後支払いについて何も言ってこない。心配になって事務所に電話してみると、クレジットカードか小切手で支払うようにと言われた。私の名前と入札金額で話が通じたので、落札できたことは間違いないらしい。カード会社の手数料でせっかくの寄付金が目減りするのはいやなので、小切手を郵送した。 しばらくして小切手は入金されたが、その後の連絡がない。今度はメールを出してみると、11月6日に担当の人から「チョムスキーの秘書のベブ・ストールさ
会場を出るときに、ビュッフェの食事がまだ残っているのが目に止まった。そういえば夫の食事もろくに用意しないまま家を飛び出してきたんだっけ。残りものは捨てられるから、おみやげにちょっと頂いていこう。 ウェイターの人が片付けを始めているから、急いで紙皿に食べ物を積み上げる。皿が手のひらサイズなので、山盛りにしても大した量ではない。これ以上乗せたらこぼれるというところで別の皿でふたをして、落とさないようにそろそろと待ち合わせ場所の駐車場に向かう。夕方チョムスキーと話をしたのと同
講演の次は自由行動。壇上にスクリーンが張ってあって、レジストの40年の歴史を振り返るスライドが上映される。ケンブリッジを拠点にするというニューオリンズ風のブラスバンドが繰り出してきてとてもにぎやかだ。会場の後方のテーブルには「レジスト40周年記念」とデコレーションした長方形のケーキがあって、スタッフによるケーキカットのあと小さく切りわけられたものをめいめいで取って食べた。壁にはレジストの活動内容を紹介する展示もしてあって、よく考えられたセットアップだ。 いくつか用意され
(録音した音声をもとに書き起こしたもの) こんにち、「権力に立ち向かう」という考えは十分に実行可能なものです。また、そうすることは理にかなったことでもあります。権力はそれが自らの正当性を証明できない限り不当なものですが、証明が可能なことはほとんどありません。 しかも、以前に比べて状況は大きく変化しています。今「政府による抑圧」というと盗聴くらいのものであって、政治的な暗殺や、警察が大衆運動を壊滅させるために大規模な作戦を展開することではありません。もちろん、今でも政府
食事のあとはゲストスピーカーによる講演だ。パンフレットによると、講演者の顔ぶれは次のとおり。 マンディ・カーター:黒人のレズピアン活動家。クエーカー系の「アメリカン・フレンズ・サービス委員会」と「平和主義を奉じる戦争抵抗同盟」の会員。 ノーム・チョムスキー:レジストの創立メンバーの一人。教育者、政治活動家。言語学の権威であるとともに、アメリカの外交政策を厳しく批判する活動家として知られる。 ビル・フレッチャー・ジュニア:労働活動家、「ユナイテッド・ピース・アンド・ジャ
ビュッフェ形式のケータリングが来ていて、会場の隅にはおいしそうなご馳走が並んでいる。会費が75ドルともなれば食事もそれ相当のものも用意するようだ。大勢集まってきたゲストで長い行列ができている。オークション参加の腹をくくった私も負けじと並んで、小さい紙皿に山盛りにして食べた。洋食に中近東やアジア風のメニューがとりまぜられていておいしかった。 続く (写真:iStock by Getty Images, Free stock)
パーティの式次第は、ビュッフェ形式の食事に続いてゲストスピーカーによる講演。講演の前にサイレントオークションとはなんだろうかと思って見に行くと、ホールの外の廊下にオークション品目が展示されている。テーブルにはそれぞれのアイテムに入札価格を書き込む用紙が置かれている。一行に名前とメールアドレスか電話、値段を書くコラムがあるだけの簡単な書式だ。 係りの人に聞いたところ、締め切りは11時だという。それまでに最高価格をつけた人が落札できるわけだ。司会がにぎやかに取り仕切るオーク