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チョムスキーとの対話 19インタビューを終えて

 今回の機会で一番印象深かったのは、チョムスキーは私と話をするつもりだったのに対し、私はチョムスキーにインタビューをする用意をしていたという、二人の心構えの違いだった。

 思えばオークションのタイトルが「チョムスキーと政治か言語学について話す」だったのでチョムスキーのほうが正しいのだが、私はこちらから質問をすることだけに専念していて、すっかり聞き手にまわってしまった。というのも、私からチョムスキーに話せることなどほとんどないという思い込みがあったからだが、チョムスキーは折に触れて私の意見も求めてきて、私からの話を聞くことを本当に望んでいるようだった。

 『Zマガジン』に掲載されているインタビュー記事や、デビッド・バーサミアンによるインタビューを読んでも、インタビュアーが一言質問すると100行くらいの返事が怒涛のように返ってきているように見えるので、これは意外な手ごたえだった。チョムスキーにもっといろいろなことを返して、ディスカッションができたらどんなに楽しかっただろうか。

 しかし、インタビュー中の私は用意した質問に対する答えを得るのに必死で、自分のほうからチョムスキーに語りかける余裕などなかった。あとから思えばこれはとても失礼なことで、いつもいろいろな人から質問攻めにあっているチョムスキーからすれば、知らない人と話をするのは意外と楽しいことだったのかもしれない。その期待を裏切って一方的に質問をしていたことにとても申し訳なく思う。できることならもう一度会って、その前に必死で勉強して、今度は私からも興味深い話をチョムスキーにできるようになりたいものだが、そんな機会は二度とめぐってこないだろう。私に与えられた生涯で一度きり、45分チョムスキーと話をできるという、それけでも信じられないような幸運はもう過ぎ去ってしまったのだ。

 それともう一点後悔することがあるとすれば、緊張のあまり声が出ないのと、英語が下手なせいで、チョムスキーに何度か質問を聞き返されたことだ。在米9年で日常生活にほとんど不自由がないのですっかり油断していたのだが、レコーダーで聞いた自分の英語はじつに惨憺たるものだった。この点については十分に反省して、もう一度勉強しなおさなければならない。冷や汗を流しながらテープ起こしをして、つくづく肝に銘じたことだった。しかし、自分の英語の録音を事前に聞いていたらチョムスキーにインタビューをするなどという野心は起こさなかっただろうから、この点については知らぬが仏だったとも言える。

 一方、特筆に価するのは、Understanding Power が編集されたいきさつを聞けたことだ。これは編集者から聞いてほしいとリクエストのあった質問なのだが、本当に質問して良かったと思う。そのおかげで、チョムスキーが60年代から行ってきた講演や聴衆との対話は膨大な数にのぼるから、本書に収められたのもその中のほんの一部でしかないということを、改めて思い知った。400ページの原著を読むだけでも大変な人だと驚いたものだが、チョムスキーはこれと同じような対話を何十回、何百回と繰り返してきたのだ。しかも、そのほとんどは記録に残されていない。

 さらにチョムスキーの本業は言語学なので、私が触れている彼の社会活動に関する業績は傍流に属している。私にはチョムスキーの言語学や哲学に関する著作は歯が立たないので、彼が生涯で成しとげるだろう仕事の全貌を想像することさえ難しい。Understanding Power でチョムスキーの世界を垣間見たと思ったら、それは彼の宇宙のほんの一部でしかないことだったのだ。

 個々の質問については、戦争の話題がうまくはぐらかされたような気がしないでもないが、なかなか面白い話が聞けたと思う。第二次世界大戦後のアメリカによる各国の民主化妨害工作に関しては『現代社会で起こったこと』の記述と重複する部分が多いのであせったが、日本の「逆コース」などは初めて聞く言葉だった。

 それから、宗教と子育てについては本などで読んだことのない話が出てきて聞き応えがあった。政治活動家である以上当然かもしれないけれど、チョムスキーは自分の宗教観と家族観についてはあまり語ることがない。特に子育てに関する話は、悩みながら子供を育て、消費文明に蝕まれる孫を心配する普通の家庭人としてのチョムスキーの顔がのぞいた。

 さらにもうひとつ印象深かったのは、私に子供がいるという話をした瞬間、基本的に無表情な彼の顔が笑顔でほころんだことだ。以前講演会のあとにサインをもらおうと近づいたときに、幼い女の子を抱えている人がいた。女の子がチョムスキーにサイン用のペンを渡したのだが、そのときチョムスキーはえもいわれぬ笑顔を浮かべた。あまりにも素敵な表情だったので、私にも子供がいたら同じことをして笑ってもらえるのになあとうらやましくなったほどだ。それがまさか今回、子供の話をしただけでそれと同じ笑顔が見られるとは思わなかった。

 総じて言えば、本を読んで圧倒された知の巨人・チョムスキーと、目の前にいる普通のおじいさんのチョムスキーとの乖離は余計に深まった。著名な学者といえば、結婚もせず、あるいは家族があっても家のことは奥さんに任せっぱなしで、ひたすら研究に没頭する仕事の鬼というイメージがあったからだ。それだけの犠牲を払わなくては後世に名を残すような業績は上げられない・・・と思いきや、この人はその上仕事の邪魔になると言いながら社会運動をバリバリやって、しかも愛妻家の子煩悩で、暖かい家庭を築いているのである。

 さらに、眉間にしわ寄せて「わしはこれだけのことをやってるんじゃ」というオーラをこれっぽっちも放っていないところが尋常ではない。一見して普通の人であるところに一層の凄みを感じさせる、知れば知るほど不思議で魅力的な人物だった。

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