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チョムスキーとの対話 15MITのオフィス

 いよいよアポイントメントの15分前。入館にはバッジかなにかがいるのかと思ったら、受付はなくてノーチェックだった。指定された階にエレベーターで向かう。エレベーターを出たところにあるホールは、外観に負けず劣らず都会的なデザインで明るい。真ん中のテーブルには、大胆な色使いの花が生けられている。さて、ここからどうしたものか。人気がないのでロビー奥の廊下をふらふらしていると、東欧系とおぼしききれいなお姉さんが出てきた。

「チョムスキー教授とお約束を頂いているんですが、先生のオフィスはどこでしょう?」

「そこを曲がって右の奥よ」

 場所の見当がついたところで、化粧室で一息つく。新聞でこのビルは建築上の欠陥が多くて利用者の評判が悪いという記事を読んだことがあるが、実際トイレもデザイン優先で使いにくい。こんな前衛的なオフィスでチョムスキーが働いているとは、気の毒のようなおかしいような。

 化粧室を出て廊下を歩いていくと、哲学科の学生の顔写真が名前付きで貼ってあるパネルが目に止まった。中に日本人の若者が一人いる。見るからに賢そうな好青年で、ひとごとながら将来が楽しみだ。おばさんが陰で応援しているから、がんばってたくさん勉強するんだよ。

 そうこうしているうちに、とうとうチョムスキーのオフィスについた。ネームプレートが出ているから間違いない。他の教授一人と同室のようだ。ドアを開けたところにキューブがあって、青年がパソコンに向かっている。チョムスキーとオフィスをシェアしている教授の秘書らしい。来訪の趣旨を伝えると、私の前の面会がまだ終わっていないので部屋の外のイスで待つようにと言われた。

 廊下にはイスが二脚横並びになっていて、ひじかけに「チョムスキー」というテープラベルが貼ってある。オーバーフローした面会者用にわざわざ用意してあるのだろう。腰かけて、気持ちを落ち着けようとストレッチをした。向かいのオフィスのドアが開いていて、若い男性教授と学生が熱心に話し込んでいる。さすがにここまで来るとアカデミックな雰囲気が伝わってくる。嵐の前の静けさ。

 2時を少しまわったところでドアが開いて、ベブさんが中に入れてくれた。こざっぱりした、いかにも有能そうな中年女性だ。あいさつをして、手土産のチョコレートクッキーを渡す。ベブさんはことのほか喜んで、一緒に食べようと誘ってくれたが、自分の分はべつにあるので結構ですと断る。「私、チョムスキーとチョコレートに目がないんです」という駄洒落を思いつくが、あんまり軽薄なので口には出さなかった。

「オークション、大変だったでしょう?」とねぎらってくれるベブさん。「はい。でもおかげさまで夢がかないました」

「それは良かった。悪いけど前の人がまだ済んでいないから、そこのイスでもう少し待っててね」

 オフィスの奥はさらに小部屋が二つあって、チョムスキーはその一つを使っているらしい。チョムスキーの部屋の前に並んでいるイスに座るが、外の薄暗い廊下のほうが落ち着けてよかったな。ベブさんのキューブは先ほどの青年の反対側にあって、壁にはぎっしり本が並んでいる。手持ち無沙汰でもじもじしているとドアが開いて、チョムスキーと前の面会者が出てきた。

 面会者を送り出したあと、ベブさんと明日の予定の話を始めるチョムスキー。講演会場ではどこに駐車すればいいかなど、具体的なロジスティックスの確認だ。ベブさんは冗談を交えながら、テキパキとチョムスキーの質問に答えていく。MITの教授陣の中でも突出しているに違いないチョムスキーの超過密スケジュールを管理している名秘書だ。

 用事が終わったチョムスキーに、いよいよ部屋に通される。奥の窓にデスクがあって、部屋の真ん中に丸テーブルが一つ。そこにチョムスキーと向き合う形で座る。改めて対面すると、4年前に初めて見たときよりだいぶお年を召されたなと思う。鼻の頭などに白髪がちょろちょろ生えていて、まるで苔むした古木の趣だ。

 感慨にふける間もなく、「あなたのことについて少し話をして下さい」といきなり切り出されて面くらった。自分が質問をすることしか考えていなかったからだが、そういえばチョムスキーは私のことを何も知らない(オークションの前に会ったことを覚えておられるかどうかは分からなかった)。

 レキシントンに住んでいることと、チョムスキーの作品の翻訳を日本で出していること、それに今は Understanding Power を訳していることを簡単に説明した。

 それから、インタビューを録音して自分のサイトで発表する許可を得た。『現代社会で起こったこと』の原著に載せるための写真の撮影も簡単にOKしてくれた。二枚撮ったが、あいにくどちらもメガネが反射したうえに写りが悪い。Understanding Power の表紙に出ている、薄い笑みを浮かべているポートレートが理想だったが、やっぱりど素人が取るデジカメのスナップショットではこんなものなのだろう。

 最後にICレコーダーをセットして、時間確認用の腕時計と翻訳に使っているUnderstanding Power、それに用意した原稿をテーブルに置く。出版社から人がついてきてくれる作家と違って、なんでも自分でしなければならない一人親方は大変だが、忙しさにまぎれて緊張する暇がないのは助かった。よし、これで準備が整った。いよいよインタビューの始まりだ。

(注:2021年現在、チョムスキーはアリゾナ州立大学に移られていてこのビルにはいません)

続く


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