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チョムスキーとの対話 16インタビュー全文

C:チョムスキー、T:著者

T:それでは、これから45分お話をさせていただきます。
C:はい。翻訳に関してですが、なにか問題はありませんでしたか?
T:脚注に出ていた資料が見つからなくて苦労したことがありました。*1
C:あのウェブサイトはとても良くできていたようですが・・・。
T:はい。でも一つ、コーネル大学にしかないと思われる資料がありました。小さい子供がいるものですから、コーネルまで行くことができなかったんです。
C:コーネルにだけあるとは・・・何についての資料ですか?
T:ニカラグアの将校がしたインタビューの記録で、彼がコントラに行ったトレーニングについて述べたものです。日本の自衛隊とおぼしき記述が出てくるので興味があったのですが、どうしても見つけられませんでした。
C:それがコーネル大学にだけある?
T:どうやらそのようです。
C:たとえば、レキシントンの市立図書館でもたいていのものは手に入りますよ。私も地元の図書館でかなりの本を取り寄せています。一度問い合わせてみてはどうですか。
T:でも、本ではなくてニュースレターなんです。
C:なるほど。それでは難しいかもしれませんね。コーネルには知り合いがいますが・・・。
T:いえ、どうぞご心配なく。それほど重要というわけではなくて、翻訳作業そのものにも影響がありませんでしたから。

T:今日は私が翻訳をしているということで、この本についていくつかお伺いしたいことがあります。まず、この本が作られたいきさつをお聞かせください。

C:それが、とても型破りなんですよ。テープを起こした原稿のほとんどは・・・マサチューセッツにあるロー会議センター*2 は、といってもまだあるかどうかわかりませんが、あれは15年ほど前の90年代始めのことでした。ある人が、たしか現地で活動する神父でしたが、参加者を2,30人募って、小さなミーティングを開いていました。週末にかけて行われる合宿のような形式です。センターには宿泊施設が整っていて、朝食のあと参加者がみんなでディスカッションを開いていました。たいてい外部から講師を招いていて、当時呼ばれたのが私でした。

あの時は三日ほどそこで過ごしたと思います。くつろいだ雰囲気で、なりゆきにまかせてディスカッションなどいろいろなことをしました。私はそれが記録されていることはまったく知りませんでしたが、どうやらテープの記録が残っていたらしい。そして例の編集者たちが、彼らはもともと公益弁護士なんですが、「記録を手に入れて原稿に書き起こしたから、本の形にまとめたい」と言ってきたというわけなんです。

T:それはすごいお話ですね。
C:本当にインフォーマルなディスカッションでした。きっと誰かが録音していたんでしょう。あれを編集するのは大仕事だったと思います。しかも脚注のウェブサイトまで立ち上げたんですから大したものです。あのサイトには関連情報が網羅されています。

T:おっしゃるとおりです。
C:脚注について質問があるなら、彼らに聞いてみるといいですよ。
T:はい。じつはすでにメールを送ってみたんですが、エラーが返ってきてしまいました。もう一度試してみます。
C:そうですか。もう一度やってみてください。彼らは実によくやってくれました。私も送られてきた原稿を見て個人名を直したり、そういうことはしましたが、編集作業の大部分は彼らの仕事です。

T:タイトルの"Understanding Power"ですが、権力のありかを理解し、それを解体するというのは、ご自身の政治活動における主要なテーマだとお考えですか?

C:この本のテーマが政治活動ですからね。権力がなにかを理解しなければ、それについてどうすることもできない。しかし、タイトルは編集者が選んだものです。あの本はあの二人が作ったも同然なのです。私がしたのは、原稿で彼らがわからなかったことについて答えることだけです。

T:そうですか。

C:はい。彼らは本当によくやってくれました。おかげで評判は上々で、今でもよく売れているんですよ。他の作品よりも読みやすいという感想がたくさん寄せられています。くつろいだ雰囲気で活発な議論が交わされているので、読んでいてとても面白いそうです。

T:先生の講演では、質疑応答の時間がとても大切だと思います。聴衆と交わされる対話が非常に興味深いからです。そういう意味で、この本が発表されて本当に良かったと思います。

C:聴衆はみな思慮深い人たちでした。質問やコメントにそれが良く現れていると思います。私が彼らから学ぶこともたくさんありました。

T:はい。どの対話もとても興味深いものです。

C:質問者は名前が出ていないでしょう?

T:ええ。「男性」か「女性」と表記されているだけです。

C:「男性」か「女性」。

T:そのとおりです。

C:今となっては連絡の取りようがないので、発言を掲載する許可が得られなかったのです。

T:次は日本国憲法の第九条、戦争と武力行使の放棄を定めた、いわゆる平和条項に関する質問です。在日アメリカ人の映画監督、ジャン・ユンカーマンが作った『日本国憲法』という作品がありますね。先生のインタビューも収録されていて、日本の憲法に関する質問に答えられていると思います。作品を見てから質問を考えるべきでしたが、未見ですので質問が重複していましたらお許しください。

先生は、問題解決の最後の手段としての暴力の行使に反対されておられないようですね。Understanding Power では、「戦争開始の決断は国民による論議を十分に重ねたうえでなされるべき」だと述べられている箇所があります。

C:私は、それが十分な情報提供を受けたうえでの下された決断であるなら反対はしません。当然、民主的なプロセスを経て戦争を行う決定が下されることはありえます。しかし、それに対する国民からの抵抗や反対も許容されるべきです。たとえば、インドシナ戦争の場合はどうだったか。開戦に先立って国民投票が行われたことはありません。国民による組織だった反対運動もありませんでした。それでも国民の大半は反対していましたから、あの戦争は誤りだったと思います。しかし、戦争を始める決断が正しいケースもあるでしょう。他の国が攻撃をしかけてきたら、誰にでも自衛をする権利はありますからね。

T:日本はこの平和条項のために・・・

C:でも、最後の手段としての武力行使は認められています。自衛軍があるわけですから。

T:この本で述べられている、ジェームズ・マディソンの「羊皮紙の障壁」と同じようなケースで・・・

C:法律が拡大解釈されている。

T:はい。今では正規軍を備えられるように法律を改定しようとする動きにまでつながっています。

C:自衛隊は一国の軍隊としては世界でも有数の規模になっていますね。

T:軍事予算では世界第五位です。

C:そして、核兵器を保有する寸前のところまできている。

T:はい。興味深いことに、平和条項の起源は今でもはっきりしていなくて、どうしてこの条文が憲法に盛り込まれたのかはよくわかりません。第二次世界大戦後、GHQの占領中にマッカーサーが提出した草案が元になっていることまでは確かです。でもなぜアメリカの政策立案者は、後日自分たちが軍隊を設置させて最終的に無効にすることがわかっていた条項の策定を許したのでしょうか?

C:最終的な目標ということで言えば、アメリカは日本を完全な支配下に置くことを望んでいました。それに、戦後の日本に対してアメリカがしたのは平和条項の追加だけではありません。日本の民主化を妨害するために、激しい妨害活動も行いました。たとえば1947年には大規模な介入が展開されました。日本では1940年代半ば、民主化が大きく進んでいた。毎日新聞などは従業員が経営を掌握していました。労働組合が強い力を発揮し、伝統的なファシストの指導者を追い払っていたのです。

当然、アメリカ政府はそれを苦々しく思っていましたが、当時の状況はなかなか興味深いものでした。マッカーサーがそうした民主化を容認していたからです。マッカーサーはワシントンにいるリベラル派、たとえばマッキノン *3 などよりもさらにリベラルでした。マッキノンたちは日本の民主化に反対し、1947年に「逆コース」と呼ばれる政策を進めました。そして労働組合の力を大幅に弱め、労働者による企業経営の掌握を阻止したのです。財閥をはじめとする従来のファシスト的な制度も復活させた。自民党による一党優位体制が確立されたのもこのときです。

こうした動きは日本だけでなく、当時世界中で起きていたものです。民主主義を妨げる非常に強力な政策が行われていて・・・当時、民主主義の一大潮流が第二次大戦直後の世界をさらっていました。アメリカも例外ではありません。アメリカとイギリスは強い嫌悪感を示し、この流れを変えるために手を打ったのです。日本の場合、アメリカは日本を直接支配することにこだわっていた。他の連合国が手を出すことを許さず、自分たちだけの植民地として支配しようとしました。そのため、サンフランシスコ講和条約が締結されたとき、他のアジア諸国は参加しませんでした。

T:参加したのはスリランカだけ・・・

C:あとフィリピンもですが、フィリピンはアメリカの忠実な同盟国です。ところが、インドやインドネシアといったアジアの独立諸国は----インドネシアは日本に侵略されていた-----サンフランシスコ講和条約には参加しようとしませんでした。*4 アメリカが一方的に押し付けた条約だったからです。「逆コース」については研究が進んでいて、詳細な記録が発表されていますよ。私も「逆コース」の概略をまとめたことがあります。『民主主義の阻止』というタイトルの本で、そのへんに一冊あったと思います。もしよかったら読んでみてください。

この本では、たしか11章だったと思いますが、戦勝国のアメリカとイギリスが当時行った政策について述べています。民主化の流れを押し戻すために、両国は世界中で多大な努力を払いました。相当手荒い方法が取られたこともあります。たとえば強い反ファシズム運動が起こっていたギリシャでは、まずイギリスが介入に踏み切ったものの思うような成果はあげられなかった。そこでアメリカが取って代わって戦争を起こし、15万人以上の犠牲者を出しました。その結果、伝統的なファシストの秩序が復活したのです。

一方、イタリアでは左派が選挙に勝ちそうになっていました。1948年のことで、アメリカは共産主義者によるイタリアを支配を恐れました。そこで極端な方法で選挙を妨害したのです。国家安全保障会議の最初の議事録であるNSC1では、共産党が選挙に勝った場合の対策がまとめらた。その場合、アメリカは非常事態を宣言し、軍隊を発動してイタリア軍を支援するというのです。これがNSC1の要点で、つまりは共産主義者たちが合法的な方法で選挙で勝った場合はそうする、ということです。

この事態を防ぐために、アメリカはイタリアへの食料供給を阻みました。戦後深刻な食糧不足に悩んでいたイタリアに対して、食べ物がいきわたらないようにしたのです。さらにアメリカ国内でもイタリア系アメリカ人に対する迫害が行われ、中でも共産党を支持する者は国外追放にすると決められたほどです。そこまでアメリカによる民主化の妨害活動は徹底していたということです。共産主義の台頭に対する不安があまりにも強かったために、アメリカは1970年代までイタリアで右派のテロリスト集団の支援を続けていました。アメリカがそれほど民主主義の脅威をそれだけ真剣にとらえていたわけです。

実際、アメリカとイギリスは----第二次世界大戦の経緯を振り返るならば----、あれはロシア人が戦ったも同然の戦争です。実戦のほとんどはロシア兵によって行われたからです。アメリカとイギリスの軍隊は周辺をうろうろしていただけです。ですから1943年に米英軍がイタリアに上陸して北上したとき、ロシア側はこれを良しとしませんでした。ロシアはアメリカに対して、あくまでも第二戦線を守ってナチスがロシアに迫るのを防ぐことを望んでいました。しかし、基本的にアメリカは、ロシアとドイツがまともにぶつかってどちらも壊滅することを狙っていました。そこで自分たちは、戦地の周辺で様子を伺っていたのです。

そうした中、アメリカ軍はイタリアに入るやいなやファシストたちに再び権力を与え、親ファシスト派の国王を復権させました。このとき首相になったのはイタリア軍の陸軍元帥で、戦争で名を上げた英雄、しかも親ナチの英雄です。*5 エチオピアの侵略の指揮をとった人物でもあります。

ところが米英軍がイタリアを北上したころには、パルチザンによる開放が進み、ドイツ人が追い出されていました。そして、日本などで見られた左派の民主社会がここでも作られていました。労働者が地域社会の運営に参加し、産業の経営を掌握するなど、さまざまなことが行われていたのです。それを目の当たりにしたアメリカ人とイギリス人は愕然としました。興味深いのは、イギリスの労働党がこの事態を許そうとせず、新しく生まれたシステムをすべて叩き潰したということです。そして彼らは、従来のファシスト型少数独裁政治を復活させようとしました。ですからアメリカとイギリスにとって、選挙は重大な脅威と考えられていました。先ほども言ったとおり、種々の妨害活動は少なくとも70年代まで続けられたのです。この史実については主流の学者による研究が数多く発表されていますが、アメリカではほとんど知られていません。

日本についていえば、アメリカは民主化の妨害にかなりてこずりました。自分たちが占領していて、ほかの国がすべて排除されていたからです。イギリスもフランスも他のアジア諸国も、日本の戦後処理に関わることは許されませんでした。新憲法が押し付けられたのもそのためだと思います。

当時、アメリカの政策立案者は、日本が将来自分たちの競合相手になるとは思ってもみませんでした。アメリカ人の間にはまだ東洋人に対する人種差別が根強く残っていました。アメリカは自分たちの基盤の一つとして日本経済を機能させるつもりだったが、将来日本が自分たちの競争相手になるなどとは夢にも考えていなかった。実際、「日本もオモチャくらいならそのうち作れるようになるかもしれない」などという政治家による発言が記録されています。ですから日本がハイテク機器を輸出しはじめたとき、アメリカ人はとても驚きました。

ご存知かもしれませんが、アメリカ史上最も強硬な保護主義を取ったレーガンは、日本からの輸入品を締め出し、アメリカの製造業を日本の競争から守ったのです。これは誰も予期していなかった。戦後、アメリカでは日本が第二のフィリピンのようになるだろうと考えられていたのです。輸出品といえばせいぜいオモチャや小物くらいしか作れない植民地ということです。

T:では、先生はある国が軍隊を完全に放棄することはできないとお考えですか。いわば世界規模のチキンレースのようなもので、だれもが最初に軍隊を持たない国になるのは嫌がるような気がしますが。

C:日本はその点、かなりうまくやってきたと思いますよ。アメリカは巨大な軍隊を保有することによるマイナスの効果を多く抱えています。一つは膨大なコストで、アメリカのインフラがこれほどまでに貧しい一因になっています。日米の鉄道システムの違いを見れば一目瞭然です。アメリカの鉄道網はまったくお粗末で、日本とは比べ物になりません。教育や健康保険、環境保護などに使えたはずの予算が全て軍事費にまわされた結果です。巨大な軍の維持が長期的に経済に及ぼす影響はじつに深刻です。

もうひとつには、あまり気がつかれていないことですが、経済の大部分が軍事支出によって支えられているという現実があります。軍事支出の多くの部分が、軍隊とは直接関係がありません。例えば、MITを考えてみましょう。1950年代と60年代、この大学の予算はほとんどペンタゴンによってまかなわれていました。しかし、MITが戦争に関わっていたというわけではありません。そうした予算を使って、MITがコンピュータやインターネット、マイクロエレクトロニクス、人工衛星などを開発したということです。ハイテク経済は軍事支出なしには生まれませんでした。

しかも、これは十分に計算された計画でした。ペンタゴンもそうした資金の効用を熟知していました。彼らは将来のハイテク経済に出資していたのです。ですから、従来の軍事費の使い方にはプラス面とマイナス面とがありました。

そして、日本はハイテク経済の基礎を築いていたアメリカの軍事費の恩恵を受けていました。日本がハイテク製品を生産できるようになったのはアメリカよりだいぶあとのことです。ハイテク製品の生産が本格的にはじまった当初、日本はアメリカの資源をかなり流用していました。それを踏み台にして、やがて独自の技術を編み出し、消費財の生産に優れた手腕を発揮していったわけです。しかし、基本となる研究開発はアメリカ軍が行ったものです。ですから、一口に軍事費といってもいろいろな効用があるのです。現在の軍事予算のほとんどは、人の害になる使い方しかされていません。経済を潤すスピンオフ効果はほとんどありませんから。

T:次は宗教についてお尋ねします。チョムスキーさんは、特定の宗教を信じておられないようですが。

C:私自身は確かに無宗教です。しかし私が同意しかねるのは、例えばサム・ハリス*6 やリチャード・ドーキンス*7 のような戦闘的な無神論者のやり方ですね。彼らの言動は人の道に反していると思います。人を幸せにしたり、希望やコミュニティの一員であるという充実感をもたらす宗教なら、私はそれを良いものだと思います。例えばここに瀕死の子供を抱えた母親がいるとして、天国で子供にまた会えると信じているとしたら、「それは作り話だ」などとは言えません。私にそんなことを言う権利はないのです。

実際、大勢の人にとって宗教は大切な意味を持っています。アメリカの、そうですね、レキシントンを例に取ると、あの町にはコミュニティというものが存在しません。*8
あなたの所はどうかわかりませんが、うちのまわりでは近所づきあいというものがほとんどありません。私たちがレキシントンで当時新しく宅地開発されたエリアに住みはじめたのは45年前のことです。今でも家の前で誰かに会えばあいさつぐらいはするが、近隣の住人との交流はない。とても孤立した社会です。住人は春になれば庭に出て芝生の手入れなどをするものの、冬は人っ子一人見かけない。そこで今も残るわずかなコミュニティの一つが、宗教関係のものなのです。*9
教会やシナゴーグや、そういった集会所に行けばコミュニティが存在します。宗教を基盤として人が集まれる場所なら比較的たくさんあるのです。アメリカ全体がこういうありさまで、一部のマイノリティにあるコミュニティを除けば、とても孤立した社会です。

アメリカにはまた、高い流動性という特徴もあります。例えばヨーロッパの大学に行くと、学生はその地域で生まれ育った人たちで、家族は近くに住んでいます。いとこや幼なじみに囲まれて暮らしているのです。ところが、アメリカはそうではない。人は学校を卒業するといろいろなところに移り住んでいきます。私たちもこのあたりの出身ではありません。親戚縁者が身近にいないということですが、これは深刻な影響をもたらします。私たちの年になると、回りの友人などは皆高齢になり、介護を受けたりほかの人の手助けが必要になったりします。でも家族の手助けは得られません。

T:おっしゃるとおりです。

そうなったらどうするか。介護付きの老人ホームに行くしかありません。昔なら大勢の人が・・・例えば、私の祖父は95歳で亡くなるまでずっとユダヤ人地区に住んでいました。最後は同居していた叔母に看取られました。そんなことは今では考えられません。*10

そうした環境のなか、宗教は人々に残されたわずかな社会的つながりの一つです。教義を信じていようがいまいが、そこに行けばコミュニティと人同士の交流が得られるのです。

T:私には宗教は人間が作ったもので、その逆ではないように思えます。

C:人はものごとに説明を求めます。ものごとが起きる要因を知りたがるものなのです。例えばここであることが起きるとします。幼児さえでも、何かが起きると、その原因となるもの、何がそれを起こしているのかを見つけようとする。ごく自然な行動です。ボールが床を転がるところを見た子供は、どうしてそれが床を転がっているのかを知ろうとするものです。それと同じように、世界で起きるものごとに対して、人はその原因を探ろうとします。私がいくばくかでもそれについて知っている文化には、例外なくスピリチュアルな媒体というものがあります。人はそのようにして世界で起きることに説明を見出しているのです。

それが人間の作リ出したものだと一蹴することはできるでしょうし、個人的にその解釈は正しいとは思いますが、人がそうした説明を求めるのももっともなことです。人はそうすることによって、何らかの安らぎや地域との連帯感や、希望といったものをを得ているのです。他の人を傷つけない限り、そうした宗教にはなんの問題もないと思います。

もちろん、中には人に害を及ぼす宗教もあります。ある宗教の原理主義的な宗派が組織立った活動を始めたら、とても危険なことになる。日本では宗教はどのような役割を果たしているんでしょうか。

T:日本人はあらゆる宗教を信じているようで、その実何も信じていないという妙な具合になっています。状況に応じて様々な宗教が儀式やイベントに利用されています。同じ人がキリスト教の教会で結婚式を挙げたと思えば、葬式や埋葬は仏式で行ったりするのです。

C:神道はどうですか?

T:神社は全国にたくさんあって、参拝者はたくさんいます。年始には大勢の人が神社に詣でます。

C:それは日本人の生活に重要な意味を持っているのですか?

T:スピリチュアルな意味はほとんど失われていると思います。大多数の人にとってはたんなる季節行事の一つに過ぎません。

C:日々の生活にメリハリが生まれるとか、季節感があるとか、そういうことでしょうね。ユダヤ人コミュニティも同じことです。私の親戚もそろってユダヤ教の行事を行いますが、みんながたまに集まって何かができる機会だからそうしているだけです。一年のうちで、ある決まった時期にみんなが顔を合わせるチャンスなのです。いわば感謝祭のディナーのようなものです。*11

T:私が興味深く感じるのは、社会的にとても恵まれた人たち、例えば科学分野で高い教育を受けた人の中にも神の存在を信じる人がいるということです。アポロ15号で月に行き、月面で神秘体験をしたという宇宙飛行士などがそうです。*12

C:それはアメリカだけの現象です。ヨーロッパにはそうした例はありません。理由はなんであれ、アメリカは建国当初から非常に原理主義的なキリスト教社会でした。今でもその傾向はとても極端に見られます。比較文化の研究によれば、ある社会が工業化されればされるほど、人びとの信仰心----コミュニティの一部などではなく、文字通りの信仰ということ----は減少するという結果が出ています。社会から宗教色が薄れていくのです。

ところが、アメリカは例外中の例外です。ここは国民の信仰心の強さという意味では、まるで貧しい農業社会並です。熱狂的に宗教を信じている人が実に多い。最後にその傾向が顕著にあらわれたのは1950年代のことです。例の「神のもとに国家は一つ」*13 だの「我らは神を信じる」*!4 だのといった標語が作られたのがその時です。あの一連の騒ぎは1950年代にピークを迎えました。背景にある理由の一つには、アメリカがベトナムに介入したことがあげられます。このリバイバル運動は、キリスト教徒だったディエムの政権に影響を及ぼし、アイゼンハワーがベトナムに関与するきっかけにもなったのです。

今でもそれは極端な形で随所に見られますが、現在の宗教的熱狂にはかなり疑わしい特徴があります。集団の宗教的感情が政治力として利用されたのは、ここ2,30年の間に見られる新しい現象です。始まりはカーターでした。カーターは自分の信仰心を前面に打ち出した最初の大統領です。彼は自分のことをボーン・アゲイン・クリスチャンとして喧伝しました。自分の信仰心やキリスト教に対する思いを赤裸々に語ったわけですが、彼以前にそんなことをする大統領はいませんでした。ジョンソンが教会に行こうがどうしようが、誰も気にしていなかった。大した問題ではなかったのです。ところがカーター以降の大統領は、一人残らず熱狂的なキリスト教信者としてふるまうようになりました。*15

ビル・クリントンなども実際には信仰心という意味では私とどっこいどっこいでしょうが、熱心な南部バプテスト派の教会員のふりをしていました。再選がかかっていたからです。最近の有権者は大統領候補者の信仰心を重視します。有権者のおよそ30%もの人々が、信仰の度合いを見て誰に投票するかを決めています。政治において宗教がこれほど大きな意味を持つ理由がここにあります。キリスト教に対する篤い信仰心がものを言うのです。ほかの先進国ではそんなことはありませんが、アメリカは別です。宇宙飛行士の話もこれで説明がつくのではないでしょうか。それほど宗教熱心な環境に生まれ育てば、科学者でも熱心な信仰心を保ちつづけることは十分に考えられます。

T:私は、ポール・ファーマー*16 が開放の神学に惹かれていると読んで驚いたことがあります。

C:それはまったく別の話です。ポールは親しい友人で、彼のことはよく知っています。彼が開放の神学に傾倒しているのは、私がそれに惹かれているのと同じ理由からです。開放の神学は非常に特異な運動です。実に三世紀以来始めて、カソリック教会の人びとが福音を真剣にとらえたからです。福音を残したキリストとその使徒たちは、ラディカルな平和主義者、それも筋金入りのラディカルな平和主義者でした。キリストが殺されたのはそのためです。ところが四世紀に入ると、ローマ帝国のコンスタンチヌス一世がキリスト教に改宗しました。カソリック教会をラディカルな平和主義者の信仰から、周辺地域を征服するローマ帝国の宗教へと作り変えたのです。それ以降、貧者の苦しみの象徴だった十字架は、ローマ帝国の盾に変化しました。

この時以来、カソリック教会は豊かな支配者の宗教になりました。人は福音書を読んでも、その意味を考えようとはしません。しかし、開放の神学は福音書の原点に立ち返り、その意味を真剣にとらえるものです。聖職者や修道女や一般の人びとが地方に赴き、農民を集めて福音書の勉強会を開き、福音の意味を考えて、それをもとに行動するように働きかけたのです。そこから本格的な組織運動が生まれました。当然バチカンはそんな動きを認めようとはせず、アメリカは開放の神学を攻撃し始めました。

あなたの後ろに一枚の絵がかかっています。*17 米国ではほとんど知られておらず、ラテンアメリカでは誰でもが知っている絵です。死の大天使と、右にいるのがロメロ司教です。司教は暗殺されました。彼はミサをしていて、まわりにいるのはラテンアメリカの主要な知識人たちです。

司教を暗殺したのは、アメリカが支援するテロリスト部隊です。エル・サルバドルでのことでした。アメリカが仕掛けたのは大規模な戦争で、その標的は主に教会に向けられていました。バチカンは攻撃を受けて、関係者たちをエル・サルバドルから引き揚げ、聖職者の資格を剥奪しました。

ポール・ファーマーが言っているのはこの運動のことです。彼が働いていたハイチも同じことです。ジャン・ベルトラン・アリスティドも開放の神学を実戦していました。彼がクーデターでハイチを追われたのはそのためです。しかし、ポールには信仰心はありません。私もそうですが、彼は開放の神学のラディカルな平和主義のメッセージに魅力を感じているだけです。私が80年代にニカラグアを訪問したときは、イエズス会の施設に泊まらせてもらいました。私がキリスト教を信じているからではなくて、彼らがまっとうで親切な人たちだったからです。

T:次の質問です。Understanding Powerで、先生はよく資本主義の自滅的な性質について話をされています。アメリカの政策決定者は地球を核戦争の危機に追いやり、CEOは環境を破壊してとどまるところを知りません。しかし、そうした資本主義の暴走が続けば、自身の子供や孫が生きる世界の存続が危ぶまれます。彼らは一体何を考えているんでしょうか。

C:厄介な問題です。例えば、ある人がプライベートでは環境保護を訴えたり、フェミニストだったり、労働者の権利を尊重したり、人間の命を尊重していたとします。ところが、同じ人が国務省に勤めていたり、企業のCEOだったりすると、職務上ではまったく逆の行動に出るということが十分にありえるのです。制度上の枠組みがその人が選べる選択肢の幅をせばめるからです。ここで、あなたがある企業のCEOだったとします。具体的な例をあげましょう。自動社メーカーにはGMやトヨタなどの大手三社がありますね。そのなかの一社、例えばトヨタが、コストを無視してこの先10年で維持可能な資源を燃料にする車を開発することに決めたとします。すると、10年経つころにはトヨタはもう存在しないでしょう。

T:でも、そうした人たちは、自分の子供の未来を壊しているということに気がつかないのでしょうか。

C:しかし、そうしないと自分が生き残れません。ライバル企業に廃業に追い込まれるか、自滅するかのどちらかです。ですから、企業のCEOとしてあなたは、短期の利益を追求する選択しかできないのです。それが長期的には自滅を意味していても、それについては考えを及ぼすことはできません。

私は25年ほど前に『集団自殺の合理性』という記事を書いたことがあります。要は、人がある特定の制度や教義の枠組みのなかにいるときには、その仕組みのなかでは合理的だけれども、実際には自殺行為に等しい決定をすることがありうるということです。国家制度の働きもそれと似ています。市場の動きも同様です。
実際、市場はとても非効率で壊滅的なものです。そのなかで人は個々の利益を最大化しようとするあまり、自分の生活を省みることはないのですから。

ここであなたが自動車を買いに行くとしましょう。市場では、買い手と売り手が交渉し、双方にとって納得のいく値段を決めます。そうすると販売が成立する。ところが、セールスマンが車を売って客がそれを買うという商行為は、社会にとても大きな影響をもたらします。つまり、車が新しく売れた結果、公害が悪化し、交通渋滞が増加し、騒音や事故も増える。当人だけではなく、ほかの大勢の人が売り手と買い手の個人的な判断によって大きな悪影響をこうむるのです。しかし、ほかの人はこの車の販売に対して何もできません。選択肢は皆無。ゼロです。ほかの人は、その商行為にはなんの関係もありません。

経済学者はこの点をよくわかっていて、「外部性」という名前で呼んでいます。そして、それを取るにたらないことのように扱っています。しかし実際には、外部性は社会に甚大な影響を及ぼします。市場で行われる商取引の利点を凌駕するほど深刻な影響です。経済学者たちが市場の非効率さを語らない理由の一つがここにあります。特定の枠組みのなかで自分の行動を決めて、ほかの要因を配慮しないのもそのためです。

ためしに今晩、レキシントンに帰ることを考えてみましょう。あなたがどのように帰宅するかはわかりませんが、私は車を使います。レキシントンの家に帰るのに公共交通機関を使うのと自家用車に乘ることを比較すると、運転したほうが早いし安くつくからです。*18 もし仮にレキシントンまでの公共交通機関が整備されていたとしたら、一時間も渋滞にはまって苦労することなく、電車で本を読むことができるのですが。

つまり、運転することは私一人で決められるが、公共交通機関を作ることは私一人では決められない。それが社会全体で決定することだからです。個人的には車の運転は危険なのでするべきではないと思いますが、選択肢がないので、私は仕方なく自動車通勤を選びます。あなたの質問には、こうしたパラドックスがあるのです。つまり、人が自分の子どもに有害な選択をすることはあるけれども、その人が与えられた選択肢のなかでは、ほかに選べる道がないということです。

T:次は映画『マニュファクチャリング・コンセント』についてです。本のなかで、先生はこの作品について複雑な気持ちを抱いていると話されています。映画というメディアが、どうしても「あるヒーローが全ての人を救ってくれる」というメッセージを送ってしまうからというのがその理由でした。ところが、先生は最近別のドキュメンタリ、『チョムスキー 9.11 Power and Terror』にも出演されています。

C:出演したといっても私はなにもしていません。撮影隊が私の後をついて来たいというのなら、べつにダメだという理由はありませんからね。それに私は『チョムスキー 9.11 Power and Terror』も『マニュファクチャリング・コンセント』も見ていません。

T:残念ながら、『チョムスキー 9.11 Power and Terror』からも先生がヒーローであるかのような印象を受けました。

C:あの作品には妻も出演していませんでしたか。

T:キャロルさんも登場されていますが、ほんの少しです。

C:いずれにせよ、『マニュファクチャリング・コンセント』と同じことです。私は制作にはこれっぽっちも関わっていません。二年ほどの間、撮影クルーが私についてきただけです。ヒーローに祭り上げられるのはごめんです。それがいい考えだとも思いません。しかし、これは認めなければなりませんが、私が出演した映画は多くの人に影響を与えました。

T:はい。

C:『マニュファクチャリング・コンセント』を見ていろいろなことに関心を抱くようになったという人をたくさん知っています。しかし、人びとの関心はそのようにして引くべきではないのです。

T:もう一つ別の質問です。私の友人で、先生の本を読んだあとに「チョムスキーの考えは間違っている」と言った人がいます。彼女によれば、普通の人は難しいことなど考えたがらず、面倒なことは全て指導者に任せ、上の人に身を守ってもらいたがるものだそうです。そうしたほうが楽だからです。このような意見をどのように思われますか。

C:そうした意見にも一理あると思いますよ。たとえば、女性の意識の変遷を考えてみましょう。人類史のほぼ全てを通して、女性は当然男性の命令に従うべきだと考えられてきました。家父長制の社会では特にそうです。私の祖母も、そうした考えを全く疑問に思っていませんでした。しごく当然だと考えていたのです。ところが、わずか数世代で大きな変化が起きました。祖母はそれを一度も変だとは思わなかった。誰かに「あなたは抑圧されている」などと言われても、なんのことか分からなかったでしょう。ところが私の母は父の命令に従ってはいたものの、それを苦痛に感じていました。私の娘たちにいたっては「命令に従え」などと誰かが言おうものなら、笑って相手にしないでしょう。それほど大きな変化が過去数十年で起きたということです。

同じ変化は日本でも徐々に起きているのではないでしょうか。そうした変化は一朝一夕で起きるものではありません。歴史のほとんどを通じて、人類の半分は残り半分の命令に従ってきました。しかし、それは彼女たちの持って生まれた性質でしょうか。自分が抑圧されているということに気がつきさえすれば、別の道を選ぶことができるようになります。人が、自分たちには国王と僧侶が必要だと考えた時代が実際にありました。現在ではそう考える人はあまりいません。時代によって人の考え方も変わるということです。ですから、あなたの友人の言うことも正しいと思います。ただし、それは病的な状態です。人間としてあるべき姿ではありません。
例えば、奴隷制がしかれていたアメリカ南部では、奴隷の多くがそれは正しいことだと思っていたことでしょう。自分は奴隷であるべきだ、と。

T:奴隷でいれば、食べ物や着る物がもらえる。

C:親切なご主人の世話を受けられて、ありがたい----。そう考える人がたくさんいたわけです。

T:最後の質問です。私には一歳になったばかりの子供がいますが、幼い子供を持つ親に何かアドバイスをいただけませんか。

C:・・・興味深い話題です。育児の方法については、本がたくさん出ています。あなたも多分一冊くらい読んでいるでしょう。私たちが若いころにも育児書はたくさんありました。しかし、時代によってそうした本の中身は変わっているんです。

T:そうですか。

C:あることを試してみて、だめだったからほかのやり方で行ってみよう、ということだと思います。本に書いてあることはあまり当てになりませんから、自分の勘を大切にしたほうがいいですよ。一般論としては、子供には愛情を注いで暖かい環境を用意し、自分のしたいことをするように促すべきだということは言えると思いますが。

そういえばうちの長女が一歳になったころ、こんなことがありました。母が遊びに来ていて、キャロルが娘に防寒着を着せようとしましたが、娘は泣いたり暴れたりしてちっとも言うことを聞きません。いらだつキャロルに、母はこう言いました。「この子が15歳になったときのことを考えてごらん。『あのときは少なくとも娘がどこにいるか分かっていたから良かった』と思うようになるから」。*19 確かにそのとおりで、子供はどんどん大きくなって、自分のしたいようにするものです。

この国で子供を育てていくのは大変なことです。私にはティーンエージャーの孫がいますが、彼らを見ていてもそう思います。アメリカ文化のなかで育つのはとても不健康です。孫のうち二人は同い年の男の子で、生まれた日が一日しか離れていません。一人はニカラグアで大きくなり、もう一人はここで育ちました。二人はとても親しく、会えばいつも仲良く遊んでいます。しかし、性格は大違いです。アメリカで育ったほうはとてもわがままで自己主張が強く、欲しいものがあればしつこくねだる。何でもすぐに手に入らないと気がすまない性格で、多くの刺激を必要としている。社会的に見てとても問題のある態度です。ところがニカラグアで育ったほうはとても優しい子で、何も欲しがらず、自分から進んで他の人の手伝いをします。別の社会で育った結果が、二人の性格に現れているわけです。ティーンエージャーにとって、アメリカでの生活はとても厳しいものです。あなたの住まいはどちらですか?

T:ベッドフォード(レキシントンの隣町)との町境です。

C:すると、あなたの近所も家の周りと同じような状況でしょう。家の近所を歩いても、子供の姿は全くみかけません。

T:そのとおりです。

C:子供たちは家の中に閉じこもって、テレビゲームかなにか、大人から与えられた遊びをしているのです。道で遊んでいる子はいません。私たちがレキシントンに越してきたとき、近所には小さな子供が大勢いて、外で遊んでいたものです。しかし、それから社会は大きく変わりました。自分が好きなように外に出て森かどこかで遊んでいる子供は一人もいません。今の子はパソコンや電子ゲームなど、遊び方の決まったハイテクのおもちゃに囲まれているのです。子供にとっていい環境とは思えません。

しかも、私の孫たちもそうですが、彼らは一歳のころから大量のテレビコマーシャルにさらされています。商品を売りつけるプロパガンダを、幼いうちから頭に叩きこまれているのです。『コーポレーション』という映画は見ましたか?*20

T:はい。

C:あの映画でナギング*21 について述べたところは、とても参考になると思います。

T:これはお願いしようかどうかずいぶん迷ったのですが、UPの日本語版に序文を書いていただけないでしょうか。

C:・・・締め切りはいつですか?

T:出版はまだ数ヶ月先ですから、ご都合のつくときまでお待ちします。

C:・・・実は妻が思い病気で、あまり先が長くないのです。それもあって仕事の予定がだいぶ遅れているので、残念ながら序文は書けそうにありません。ほかのときならなんとかなったのですが。

T:! そういうことでしたらもちろん結構です。どうもありがとうございました。

インタビュー 了


*1 『現代社会で起こったこと』P8 ニカラグア民主戦線の情報局長、オラシオ・アルセが行ったインタビュー。ミスキート・インディアンの訓練をした日本人教官について詳しく知りたいと思い脚注の資料をあたったが、該当のニュースレターを探し出すことができなかった。www.understandingpower.com(2020年現在使われていない)の連絡先にメールをしたが返ってきてしまい、原著の出版社への問い合わせにも返事を得られなかった。

*2 http://www.rowecenter.org マサチューセッツ州西部、タングルウッドで有名なバークシャー地方にある複合宿泊施設で、各種のキャンプや合宿形式のコンファレンスに使われている。豊かな自然の中でおいしい食事を楽しみながら安上がりに会議ができるという、面白い場所らしい。

*3 カリフォルニア選出の下院議員 Clinton D. McKinnon か、ミネソタ州選出の下院議員、George E. MacKinnon のことか。

*4 実際にはインドは会議への出席を拒否し、インドネシアは署をしたが批准はしていない。

*5 ピエトロ・バドリオ(1943-1944 イタリアの首相)。

*6 アメリカのノンフィクション作家、無神論者。代表作The End of Faith (『信仰の終焉』、2004年のベストセラー)。

*7 リチャード・ドーキンス イギリスの動物行動学者。主な著作に『利己的な遺伝子』『神は妄想である』などがあり、積極的な宗教批判で知られる。

*8 チョムスキーの発言は正しく、町中の移動はほとんど車で、通行人といえば散歩かジョギングをしている人をまばらに見かけるくらい。家の近くで遊ぶ子供は皆無で、子供同士を遊ばせる場合は親がお互いの家や公園に連れて行って集まる。

*9 レキシントン周辺の郊外では、日本の住宅地における神社仏閣と同じくらい多くの教会を見かけるし、シナゴーグも点在している。しかし、教会に毎週通う、あるいは特定の教会に所属して、ボランティア活動などを行う人は日本で宗教活動に積極的に関わる人よりもはるかに多い。

*10 私も、アメリカで親が年老いて介護が必要になったので同居をするという話は聞いたことがない。その場合は介護付きの老人ホームに入所するのが普通で、子供の誰かが近くに引っ越してひんぱんに面会に行くと親孝行とされる。アメリカのほとんどの高齢者の理想は、一生自立したまま自宅で最後を迎えることと言われている。

*11 アメリカではクリスマスはれっきとした宗教行事なので、キリスト教徒以外の人はクリスマスのディナーを食べたりしない。その代わり感謝祭は宗教色のない祝日で、信仰に関係なく広く祝われている。

*12 ジム・アーウィン。帰還後、NASAを辞めて伝道師になった。

*13 アメリカの公立学校で、毎朝生徒が星条旗に向かって唱える「忠誠の誓い」に出てくる字句。「忠誠の誓い」はもともとキリスト教社会主義者の作家、フランシス・ベラミーが書いたもので、当初「神のもとに国家は一つ」という言葉はなかった。あるキリスト教団体が「無神論の国ソビエトとアメリカを区別するために」と熱心にロビー活動をした結果、1954年に付け加えられた。

*14 南北戦争中に起きた愛国心の高揚を受けて、1864年からアメリカのコインに刻印されたが、安易な政治的モットーとしてそうした字句を使うべきではないという反対も多かった。ところが、1955年には全てのコインと紙幣のデザインに取り込むよう法律で義務付けられた。

*15 バラク・オバマ大統領は、イスラム教から無神論に転じた父と不可知論者の母を持つ変り種。前任者ほど自らの信仰を露骨に押し出すことはないが、成人後にバプティストとなって家族とともに教会に通っていることを強調。大統領就任式ではリンカーンが使った聖書を持ち出す演出で、キリスト教者としてのアイデンティティをアピールした。

*16 アメリカの人類学者・ハーバード大学医学部教授で、トレーシー・キダー著『国境を越えた医師』の主人公。中南米、アフリカなどの発展途上国で診療所を開設し、エイズや結核などの治療で高い実績を上げている。ハイチをテーマに、チョムスキーとの共著も発表していて、とても魅力的な人物だ。Pathology of Power という著作に開放の神学について述べた章がある。冷徹な現実主義である彼の中で、医療と信仰がどのように共存しているのか知りたくてこの質問をした。

*17 『抗う勇気』でも言及されている絵。飾り気のないチョムスキーの明るい部屋で、異彩を放っていた。

*18 レキシントンから公共交通機関を使ってMITに来るには、車で最寄の地下鉄の駅、Alewifeまで行かなくてはならない(渋滞のないときで20分)、Alewife からMITまでは電車でおよそ15分。2009年2月現在、地下鉄駅の駐車場代は一日7ドル、地下鉄は片道2ドルなので、一往復につき11ドルかかる計算になる。地下鉄は財政難で大赤字を出しているので、将来さらに値上がりする予定。MITに駐車場が確保されていれば、車で直接通勤するほうが圧倒的に安くて便利(価格はすべてインタビュー当時のもの)。

*19 チョムスキーはよほどこのエピソードが心に残っているらしく、私が帰る直前にもう一度お母さんの発言を繰り返してにっこりと笑った。

*20 映画『マニュファクチャリング・コンセント』の監督マーク・アクバーと、映像作家・活動家のジェニファー・アボットの共同監督によるドキュメンタリ映画。ジョエル・ベイカンの著作『ザ・コーポレーション:わたしたちの社会は「企業」に支配されている』(早川書房)原作。邦題『ザ・コーポレーション』。http://www.thecorporation.com/

*21 映画の中で取り上げられている Nagging は、子供が親にものを買って欲しいと執拗にせがむこと。企業がTVコマーシャルを通じて自制のきかない子供の欲望を喚起することによって、親に金を出させる仕組みを批判している。

続く

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