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知識としての『やさしい』

人は皆『やさしい』を持っている。
私はそう思ってる。

なぜなら
『やさしい』は知識として常識として
幼い頃からすり込まれてきたからだ。

たとえば道徳の授業
こんな問題がでたとする。

あなたは電車にのっています。
そしてあなたは運が良く席に座れました。
そこに荷物をいっぱい持った
おばあちゃんが来ました。
さあ、あなたならどうしますか。

こんな問題聞くだけ無駄だ。
なぜなら答えは決まっているからだ。

「おばあちゃんに席を譲ります。」

全員が口を揃えてこう言うだろう。

結局
みんなどうすればいいかなんて分かっている。

しかし、行動するかは別だ。

仮に実際に自分がその状況にいたとして
なんの邪念を持たず
おばあちゃんに席を譲れるだろうか。

そこで私は思うのだ。

みんな『やさしさ』は持っている。
でも使うかどうかは別である、と。

おばあちゃんの問題に限らず
実際に生きていく中で
「やさしい」を使える場面は多々あるだろう。

でもその「やさしい」を使う際に生じる
メリット(見返り)とデメリットを
自分の天秤にかけた上で
使うか使わないかを決めているのではないか。

そこでどれだけ妥協できるか、が
「やさしさ」に繋がっているのでは
ないのだろうか。

そう考えてしまうと
本当の意味での「やさしい」人なんて
この世にいるのか。

純粋に私にはわからなくなった。

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