中島

普段言えない本音を発信してます

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笑顔が唯一の「居場所」であり、「逃げ」だった

私はなにを言われてもへらへら笑ってしまう。 もしかしたら、 今みてくれている貴方もそんな1人なのかも。とか そんな都合のいい妄想をしてしまいます。 例えば友達との何気ない会話。 「まじうざ」 「きも」 こんな言葉に一喜一憂してる私はきっと馬鹿。 だけど実際に表に出てくるのは、 へらっとした「笑顔」だけ。 内心どれだけ傷ついたとしても、 「笑顔」で流して誤魔化してしまうんですよね。 でも馬鹿なことにそんな自分に 今まで全然気づかなかったんです。 だってそれが私の

    • なんでこんなに生きるのが下手なんだろう

      「なにそれうざ」 「はよ死ねや」 「だるすぎるって」 今日も行き交う無数の言葉 こんな何気ない言葉に一喜一憂してる私は たぶん、きっと馬鹿 冗談なのはわかってる その場のノリで言ってるのもわかってる でもそんな言葉を 平気で他人に言えるのは なんでなんだろうか 理解ができない どう頑張ってもわからない けど言わなきゃいけないんだ じゃないとノリが悪いから ひとりだけいい子ぶって そんなぶりっ子になっちゃうから 偽善者になるから でも でもそれだけわかって

      • 悲劇のヒロインぶんな

        「被害妄想すんな」 いつも自分の頭の中で自分に言う 言い聞かせる 「全部自分のせいだから」 「全部自分がわるいから」 それはほんとの意味でわかってるんか 「自分のせいでまわりに迷惑がかかるのが嫌だ」 自分が責任とりたくないだけだろ 勝手に周り巻き込んで言い訳すんな 「自分のせい」 そういっとけばいいって思ってないのかよ 甘ったれんな そういって何も変われてないだろ 変わろうとしてないだろ 自分の意思で 自分のしたいことをしろ 「まわりが○○って言うから」 「

        • 感情の価値

          「合理的な判断と感情論の判断」 あなたはどちらが納得できますか。 大学受験の小論文を書いていた時、 先生からもらったアドバイスが 私にはどうにも上手く 飲み込めなかった思い出がある。 「もっと合理的に書きなさい」 「損得が1番説得力があるんだ」 確かに、そうかもしれない。 小論文とはそういう物だ、と理解はしている。 だけど私はずっと思っていたことがある。 ほんとに合理的な言葉だけが 聞き手が納得できる文なのか。 確かに合理的な判断の方が説得しやすいだろう。 具体的

        笑顔が唯一の「居場所」であり、「逃げ」だった

          居場所は人それぞれ

          突然だが、 あなたは心の拠り所となる場所はあるだろうか。 「心の拠り所」と言うと 硬っ苦しく感じてしまうが、 要するにすこしでも一息つけられる場所。 私の場合、それはネットの中だと思う。 理由は単純で 「誰かに迷惑をかけている」 そんな心の負担が少ないからだ。 現実では大なり小なり 嫌でも誰かに迷惑をかけている。 ネットの世界はそんな息苦しさがないのだ。 それに動画の中では ネットの活動者さんは視聴者さんを 第一に考えてくれる。 その視聴者さんの中の 何万分の1

          居場所は人それぞれ

          知識としての『やさしい』

          人は皆『やさしい』を持っている。 私はそう思ってる。 なぜなら 『やさしい』は知識として常識として 幼い頃からすり込まれてきたからだ。 たとえば道徳の授業 こんな問題がでたとする。 こんな問題聞くだけ無駄だ。 なぜなら答えは決まっているからだ。 全員が口を揃えてこう言うだろう。 結局 みんなどうすればいいかなんて分かっている。 しかし、行動するかは別だ。 仮に実際に自分がその状況にいたとして なんの邪念を持たず おばあちゃんに席を譲れるだろうか。 そこで私は思

          知識としての『やさしい』

          偽善者

          私はいつも嫌われてしまう その理由は 「いい人ぶってる」 「性格作ってる」 「ぶりっ子」 これは中高で直接言われたり、 風の噂だったりで聞いた言葉だ まあ要するに偽善者ってこと それをはじめて知った時、 自分なんて存在しちゃいけなかったんだって 本気で思った でも死ぬ勇気すらない出来損ないの自分には 変わるしかないって必死に行動するしかなかった 決心してからは 人の噂、言葉、悪口、 全てに聞き耳立てて変われるところ 全部変えていった 内面は偽善者にならないよう

          偽善者

          劣等感との葛藤

          「私なんか死んじゃえばいいんだ」 たぶん私の中のこの思いはずっと変わらない 人生に負けてるみたいで悔しいけどね 「なんで私は」 「なんで私はいつも」 「なんで私はいつもこんな」って そればっかりだ いつも周りを気にして いつも周りと比べて それでいつも勝手に死にたくなってる 完全に自業自得の負の連鎖 でもやめることなんて出来なくて だって だってさ 眩しすぎるんだよ、みんなが 羨ましい、羨ましいよ そりゃ、もちろん分かんないよ その人の背景、何があったのか

          劣等感との葛藤

          『君のような秀才にはわかるまいが、「自分の生きていることが人に迷惑をかける。僕は余計物だ」という意識ほど辛いものは世にない。』 太宰治の名言のひとつ。 すごく共感できて好き。

          『君のような秀才にはわかるまいが、「自分の生きていることが人に迷惑をかける。僕は余計物だ」という意識ほど辛いものは世にない。』 太宰治の名言のひとつ。 すごく共感できて好き。

          分かっている「けど」

          相手が自分を分かろうとしてくれないのが辛い。 それを求める行為自体おこがましいってことは前提として理解している。 それに私自身が分かろうと思う存在じゃないのかもしれないし、伝えてる内容自体興味ないのかもしれない。 そう思うといつも通り『私が悪い』という結果に辿り着く。 けどさ 相手を分かろうとする姿勢は人と人とのコミュニケーションにおいて1番に必要となる能力じゃないのかな。 そこがなければコミュニケーションなんてものは成り立たないんじゃないのかな。 頭のもやもやがず

          分かっている「けど」

          色眼鏡

          私は『自分と相手を重ねて考える人』が嫌いだ そうゆう人は相手の言葉 もっと言うと言葉に込められた感情に対し 自分の経験と合わせて物事を捉えている でも私にはその行為は とても浅はかに見えてしまう なぜなら相手と自分は全くの他人だからだ 他人の感情を完璧に理解することなどできない 仮に自分と似たような経験があったとしても そこでの感情体験は相手と自分とでは 全く異なるからだ 自分の経験を重ねて 勝手にわかった気にならないでほしい そう思ってしまう どんなに親しくて

          色眼鏡

          承認欲求

          誰も私の事見てないもんね 私は特別じゃないもんね 私は消去法の消去法 どう頑張ったって都合のいいやつ そんなん悔しいじゃんか もう誰も信じられないから 言ったってわかってくれるわけない なにか解決するわけじゃない 相談したって ただ迷惑になるだけ それがわかってるから いつも何も言わないんだよ 言えないのかな 馬鹿だよね、ほんと

          承認欲求

          見えてしまうからこそ

          話すことは嫌いじゃない むしろ好きな方だと思う 大体人間みんな話す方が好きだと思う どんなに無口な子でも話したいことはある でも伝えることってなったら話は別だ 私の場合は 伝える相手ができると途端に話せなくなる 正確に言えば話したいけど話せなくなる なぜなら相手の反応を見てしまうから 相手の態度、声色、行動 そんなところから 気持ちがダイレクトに伝わってくる その気持ちは 『つまらない』『興味が無い』 反応を見る限りそんなところだろう どんなに頑張って伝えよ

          見えてしまうからこそ