【短編小説】曖昧な記憶
久しぶりの帰省。玄関を開けた瞬間、懐かしい家の匂いが鼻をくすぐり、夏美は一瞬、胸が締め付けられるような感覚を覚えた。外では、木々のざわめきが風に揺れる音が微かに聞こえる。いつもと同じ、実家の静かな夜だ。
「おかえり、久しぶりだね。」
母親がにこやかに出迎えてくれる。
「ただいま。随分、久しぶりだね。」
夏美は笑顔を返しながら、仕事に追われる日常から切り離された心地よい空気に、懐かしさと安堵感を覚える。
母親が用意してくれた夕食のテーブルは、昔と変わらない家庭の味で満たされていた。いつもより少し豪華なメニューに、母の気遣いが感じられる。
他愛のない会話の中でひょんなことから旅行の話になった。
「あ、そういえば、覚えてる?」
母がふと思い出したように言った。
「鶴ノ湯温泉に行った時のこと。」
「鶴ノ湯温泉……?」
夏美は箸を止めて眉をひそめた。聞き覚えのない場所だった。
「3年前くらいかな。みんなで車で行ったんだよ。途中で道に迷ったけど、結局無事に着いたよね。」
父親が楽しげに話を続ける。
「3年前……?」
夏美はさらに記憶を探るが、その旅行に行った覚えは一切ない。
「夜の露天風呂、すごく気持ちよかったわよ。星がいっぱいでさ、みんなで『すごい』って感動したじゃない。あなた、すごく楽しそうだったのよ。」
母親は笑顔でそう言った。
「……ごめん、本当に覚えてないや。」
夏美は微笑もうとしたが、内心では焦りが募る。こんなに詳細に語られているのに、その場面がまったく浮かばない。忘れたのだろうか?
父親が付け加える。
「お前が宿を選んだんだぞ。あの時、いろいろ調べて、あの露天風呂が決め手だって言ってたじゃないか。」
「私が……選んだ……?」
夏美はさらに戸惑いを覚えた。宿を選んだ記憶も、露天風呂の記憶もない。まるで自分だけが置き去りにされているような感覚だ。
「まあ、最近忙しかったし、忘れちゃったのかもね。」
ひやりとした嫌な感覚を振り払うように言いながら、食卓の空気を壊さないように軽く笑った。
(会わない間に老いてきてるし、とうとうボケ始めがきたのかな、、?それにしては鮮明な思い出話だけど、、、。)
なんとなくぎこちない会話が続いたことに、不安の種が心に芽生えたものの、久々の帰省でお互いうまく会話できてないだけだろうと思い、長旅の疲れもあったので、あまり深く考えずにそのまま寝室へ向かった。
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翌朝、夏美は窓から差し込む柔らかい光を浴びながら目を覚ました。外は澄んだ秋空が広がり、木々の葉が優雅に揺れている。
「やっぱり家はいいな……」
夏美は、軽く伸びをしながら、久しぶりに心が軽くなった気がした。すっかり疲れも取れ、今日一日は家族との時間を楽しもうと決めた。
リビングにはいつもと変わらぬ静けさが漂っていた。窓の外では秋の風が木々を揺らし、葉がさらさらと音を立てている。母親はキッチンで朝食の準備をしており、香ばしいトーストの匂いが部屋に漂ってきた。
「久しぶりにゆっくりできた?」
母がキッチン越しに話しかけてくる。
「うん、やっぱり家は落ち着くね。」
夏美はソファに座りながら、窓の外を眺めた。
「それはよかったわ。この前帰ってきた時も、すぐに帰っちゃったから、もっとゆっくりして欲しかったのよね。」
夏美は、ふと母の言葉に引っかかった。
「この前って、いつのこと?」
夏美は少し首をかしげながら聞いた。
「確か、数ヶ月前くらいじゃなかった?お父さんが風邪ひいてた時に、わざわざ見舞いに来てくれたじゃない。ほら、その後でスーパーに一緒に買い物行って、夕食の支度も手伝ってくれたじゃない。」
夏美はさらに混乱した。最近の記憶を探しても、そんな出来事は一切思い出せない。母親が言う「数ヶ月前」は、自分は忙しさに追われて帰省どころではなかったはずだ。
「え……それ、私じゃないと思う。仕事が忙しかったし、ここにはずっと帰ってなかったと思うけど……」
「そんなことないわよ。だって、あなた、買い物であの新しいドレッシングを勧めてくれたでしょ?私、あれからずっと使ってるのよ。」
母はまるで当たり前のことのように、笑顔で話し続けた。
夏美は混乱したまま言葉を返す。
「いや……その時、帰ってきた覚えが本当にないんだけど……」
母親は一瞬戸惑った表情を見せたが、すぐに笑って「まあ、最近は本当に忙しかったから、忘れちゃったのかもしれないわね」と軽く流した。
そのやり取りが終わっても、夏美の胸には得体の知れない重いものが残った。母親が語ったその記憶――それは確かに自分の記憶ではない。
(本当に親の単なる勘違いなのかな、もしかして、あまりにも仕事が忙しくて、ストレスで記憶を失ってるとか?)
どれも確信を持てず、違和感に気づかないふりをした。
その日の午後、夏美は物置部屋を片付けていた。部屋の奥で埃をかぶった古いアルバムが目に留まり、懐かしさに引き寄せられるように手に取った。
「このアルバム……」
アルバムを開くと、幼少期の思い出が次々と蘇ってくる。最初のページには、家族旅行で撮った写真が載っていた。小さな体で無邪気に走り回る自分の姿に、夏美は自然と微笑んだ。父親に肩車されて笑顔を浮かべる幼い夏美。母親と一緒に海辺で遊んでいる写真や、兄妹と戯れる姿――それらは全て、夏美が鮮明に覚えている愛おしい瞬間だった。
「懐かしいなぁ……」
ページをめくるたびに、幼い頃の思い出が蘇り、心が温かくなる。アルバムには、両親と共に過ごした幸せな時間が詰まっていた。遠い昔のことのように感じるが、その時の笑顔や楽しさは決して色褪せることはないと思っていた。
しかし、次のページにたどり着いた瞬間、その懐かしさは一瞬で消え去った。
「これ……?」
次のページにあったのは、自分の知らない場所で撮られた写真だった。背の高いビルが並ぶ都会のどこかで、見知らぬ人たちと一緒に楽しげに笑う自分。その写真を見ても、どれだけ考えても、その場面は頭に浮かんでこない。
「……こんな場所、行ったことあったっけ?」
混乱したまま、さらにページを進めた。次々と現れる写真――それらは、すべてどこかで撮られたものだが、まったく記憶がない。胸が締めつけられるような不安感がじわじわと広がり、夏美は息苦しさを感じ始めた。
「これ、本当に私……?」
ページをめくる手が止まらない。見覚えのない写真が増えるごとに、現実と記憶の境界がぼやけていくようだった。そして、さらに異様なことに気づく。写真の日付が、徐々に新しくなっている。数年前の出来事から始まり、まるで過去の断片が現実に近づいてくるかのようだった。
「……まさか……」
夏美は自分の体が震えるのを感じながら、次のページをめくった。そこには、最近訪れたかのような写真があった。街中で、どこか見覚えのある場所を歩いている自分。しかし、その場面もまた、記憶にはない。
「……どうして……?」
夏美の脈拍が速くなる。写真はさらに進んでいく。いつの間にか、写真の日付は数週間前にまで迫っていた。もうこれは偶然ではない。自分の知らない場所で、自分が笑っている。日常の一瞬を切り取られたかのように、その笑顔は何の疑いもなく、写真の中で浮かんでいた。
そして、写真の日付が少しずつ現在に近づいてくる。その奇妙な感覚は、夏美の胸にじわじわと不安を広げていた。ページをめくる手が震えるのを止めることができない。
3週間前の日付が記された写真には、夏美がどこかの街中で買い物をしている姿が写っていた。服装は、最近よく着ているコートに間違いなかった。何気ない日常の一瞬を切り取ったかのようなその写真だが、何かがおかしい。自分は誰かに写真を撮られた覚えなどないし、ましてや、この日付でこの場所にいた記憶が一切ない。
「どうして……こんな写真が……」
次のページには、3日前の写真があった。そこには、彼女が実家の近くを歩いている姿が映っていた。背景には見覚えのある通りが写っているが、夏美はその場面を全く覚えていなかった。まるで誰かに見張られているような、背後に潜む視線を感じた瞬間、全身に冷や汗が流れる。
狼狽えながらもページをめくり続けていた夏美の手が、とうとう止まった。そこには、今日の日付が刻まれた写真があった。
それは、実家の玄関先に立つ夏美自身の姿だった。
夕暮れに染まる空の下、穏やかに微笑んでいる彼女。その写真を見た瞬間、夏美の全身が凍りつくような恐怖に包まれた。
笑ってる――しかし、どこか異様だった。笑顔は確かに浮かんでいるが、その笑顔はまるで「人間の表情」を真似しているかのような、不自然で歪んだものだった。目が笑っていない。口元だけが引きつるように広がり、どこかぎこちない。見るほどに、その表情が冷たく、作り物めいたものに見えてくる。
「私じゃない……これは、私じゃない……!」
胸が締め付けられるような感覚が広がり、夏美は目をそらそうとした。しかし、目の前の写真に釘付けにされるように、その異様な笑顔から逃れられない。そして気づいた――その笑顔が、まるで「こちら側」を見透かしているような、冷たい視線を投げかけていることに。
「これは…なにが起こってるの…?」
言葉が出ない。頭の中は混乱し、恐怖が体全体に広がっていく。
アルバムを閉じる間もなく、足音が近づいてくる。心臓が激しく脈打ち、胸が締め付けられるような感覚が続く。誰かが玄関のドアを開ける音が、耳に届いた。
夏美は立ち上がり、震える足でリビングに向かう。
リビングのドアを開けると、そこには、もう一人の自分が立っていた。夕焼けに照らされたその姿は、写真の中で微笑んでいた「自分」そのものだった。
だが、目が合った瞬間、全身に寒気が走る。もう一人の自分は、確かに微笑んでいるが、その笑顔は写真の中で見た不自然な笑みと同じだった。まるで、口元だけが笑いの形を作り、目は冷たく、感情の一切を感じさせない。その目が、夏美をまっすぐに見つめていた。
「……誰?」
夏美は震える声で呟いたが、返事はない。ただ静かに、そして確かに、もう一人の自分がそこに立っている。微笑んでいる――だがその笑顔は、ますます歪んで見えた。
両親は何事もなかったかのように、もう一人の自分と会話をしていた。まるで、自分がそこにいないかのように。彼女に何も違和感を感じていない様子で、普通に、当たり前のように接している。
「ねえ……!」
夏美が声を張り上げようとした瞬間、もう一人の自分がゆっくりとこちらに向き直り、微笑みを一層広げた。
その瞬間、夏美の体は完全に硬直した。冷たい汗が背中を伝い、体中が震えだす。自分自身でありながら、自分ではない――その存在が、目の前にいる。
「私の場所を……奪わないで…!」
一瞬、時が止まったかのように感じた。夏美はそのまま後ずさりし、体が動かないまま、冷たい汗が背中を伝った。
そして、その瞬間――
カシャッ。
耳をつんざくようなシャッター音が響き渡り、すべてが闇に包まれた。
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