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「ゴールデンカムイ」に学ぶ、私たちに世界の美しさは理解できないし、人間の心には愛がない。

『ゴールデンカムイ』が完結した。

日露戦争終結後のとある冬、元陸軍兵の杉元 佐一は、幼馴染の梅子の眼病の治療費を得るため北海道で砂金を採っていたところ、アイヌが秘蔵していた金塊のことを知る。直後に杉元は冬眠明けのヒグマに襲われ、窮地をアイヌの少女・アシㇼパに救われる。

『ゴールデンカムイ』Wikipediaより引用



本作は莫大な金塊を巡る冒険活劇がメインストーリーではあるが、アイヌの文化である狩猟に男性陣の強烈なサービスシーンと、混沌とした魅力がギュッと詰まった稀有な作品であった。
公式キャッチコピーの「和風闇鍋ウエスタン」は言い得て妙だ。

たまに何の漫画かわからなくなる:『ゴールデンカムイ』12巻より引用 野田サトル著



期間限定で公式アプリ全話無料キャンペーンを展開したり、東京ドームシティを皮切りに京都・福岡とゴールデンカムイ展を予定したりと、終盤は注目を集める要素が満載であった。ネットに限らず、ニュース番組でも取り上げられた程だ。

注目を集めること自体はなんら問題がないのだが、テレビ局の取り上げ方が……その……なんというか「ゴールデンカムイの最終回に大注目!」「早くもゴールデンカムイ・ロスの声も!」「若い女性にも人気急上昇!」と薄いノリで紹介されるので、正直不快でしょうがなかった。

本作が世間の注目を集めるような良作であることは間違いないのだが、鬼滅バブルを忘れられないテレビ局に「いま注目の漫画!」みたいな紹介のされ方をされると、「そうじゃないなぁ〜」という気持ちが抑えられなくなる。

リスやフクロウの脳みそを食べたり、オソマうんこやちんぽ先生を連呼する漫画が、鬼滅のように万人に受けれられるとは到底思えず、通り一遍な報道には辟易してしまった。


次いで報道された実写映画化についてもまた、同様に喜ぶことは出来なかった。

漫画やアニメの実写化は、原作ファンにとってセンシティブな問題だ。ファンが思い描く千差万別なイメージから少しでも外れてしまえば、批判は避けられない。特にキャスティングについては、その対象となりやすい。

日露戦争を生き抜いた不死身の主人公が、実写化でお馴染みの山崎賢人さんと報道された日には、インターネットから多くの落胆の声が聞こえてきても仕方がないというものだ。結果、過去にファンらが作成したキャスト表が理想的すぎてTwitterでバズるという、混沌とした状況に至っている。

個人的に面白かったのは、キャスト表に、当たり前のように姉畑支遁アネハタシトンが載っていたことだ。

左が姉畑先生・右が元国民的アイドル:画像引用作



ウコチャヌㇷ゚コㇿ

姉畑支遁は自然を愛する男だ。動植物学者である彼は、過去に犯罪を犯して刑務所に収監されていたが脱獄し、北海道で自然の美しさを満喫しながら潜伏生活をしていた。

ゴールデンカムイは特濃のクセ強囚人が山のように登場するのだが、その中でも姉畑は群を抜いて印象的なキャラクターであった。

登場したのはわずか6話程にもかかわらず、先のキャスト表にも載っていたことや、姉畑のオリジナルアニメが地上波では放送できないのでコミックス限定版に同梱されていたことなど、彼が読者から愛されている様子は、枚挙に暇がない。



そんな彼の特徴は、動植物とウコチャヌㇷ゚コㇿSEXしてしまうことだ。

シカだろうと、クマだろうと、キツネだろうと、ニワトリだろうと、イトウだろうと、クマゲラがあけた木の穴だろうと、彼は自然の美しさに心から感動し、そしてウコチャヌㇷ゚コㇿSEXを試みる。本当に仲良くなれた時の快感が、彼の原動力となっている。

牡ジカとのウコチャヌㇷ゚コㇿ:『ゴールデンカムイ』11巻 野田サトル著



作中では、どうしてもヒグマとウコチャヌㇷ゚コㇿしたい姉畑と、金塊の行方を記した刺青人皮を食べられないようウコチャヌㇷ゚コㇿを阻止する主人公たちという、シリアスなのに笑いが堪えきれない構図が出来上がっており、これぞゴールデンカムイだ!と思わず声高に主張したくなってしまう。
どうせ紹介するなら、テレビ局もこういうところを全面に紹介してくれればいいのに…なぜ……。

Tips!:動物とのウコチャヌㇷ゚コㇿは放送できない



彼がヒグマとウコチャヌㇷ゚コㇿしたい理由はシンプルだ。自然に生きる全ての動植物が美しいと信奉する彼は、ヒグマとウコチャヌㇷ゚コㇿすることで醜い自分が美しい世界とひとつになれると考えている。

なんやかんやあって、最終的に彼はヒグマとのウコチャヌㇷ゚コㇿを成し遂げ、そして死んでしまう。あまりの出来事に、その場にいた者たちは言葉を失い、主人公は興奮した様子で彼を称えるのだった。

この瞬間から私は、そしてきっと多くの読者は、彼を姉畑先生と呼ぶようになったのではないだろうか。

手に汗握るウコチャヌㇷ゚コㇿ:『ゴールデンカムイ』12巻より引用 野田サトル著


その一方で、最後まで彼に不快感を示したキャラクターがいる。ヒロインであるアイヌの少女だ。



彼女を支えるもの

ヒロインは一貫して、姉畑の行動を否定していた。……そりゃまぁ、冷静に考えればそらそうよと言わざるを得ない気もするが、とにかく最後まで彼女は姉畑を理解することはなかった。

その理由は、彼女が生きるアイヌの文化にある。


アイヌの文化圏では、自然にある全てのものにカムイが宿っていると信じられおり、ヒロインもこれに倣い、得られた獲物を頂くときなどは、獲物に宿るカムイに感謝を忘れない。ヒンナヒンナ食事に感謝する言葉の精神である。

アイヌの伝統的な信仰では、あらゆるものには"魂"が宿っていると考えられています。 中でも、植物や動物など人間に自然の恵みを与えてくれるもの、火や水、 生活用具など人間が生きていくのに欠かせないもの、天候のように人間の力の及ばないものなどを、 カムイとして敬いました。そして、この世界は、人間とカムイとが、 お互いに関わりあい影響を及ぼしあって成り立っているものだ、と考えられていました。

北海道立アイヌ民族文化研究センターHPより引用



それゆえに、彼女は姉畑の行動を理解することが出来ない。カムイは人間の力が及ばないものであるため、お互いの存在が影響し合うことはあれど、交わることはない。ウコチャヌㇷ゚コㇿによってカムイを穢すことは許されないし、動物と人間がウコチャヌㇷ゚コㇿしても子供が生まれるわけでもないと、ただただ困惑するのみだ。

理解できないウコチャヌㇷ゚コㇿ:『ゴールデンカムイ』11巻より引用 野田サトル著



アイヌ文化と同様に、宗教的に異種間のウコチャヌㇷ゚コㇿを禁じているのがキリスト教だ。旧約聖書には、浮気や近親相姦,同性間の性行為と並んで、動物とのウコチャヌㇷ゚コㇿを禁じている。

動物と寝て、動物によって身を汚してはならない。女も、動物の前に立って、これと交わってはならない。それは道ならぬことである。

旧約聖書 レビ記 18章より引用


更に付け加えると、上記のような不貞行為や同性間の性交、動物とのウコチャヌㇷ゚コㇿをした人は死ぬべきだし、相手も殺さなければならないと主張されている。割と聖書は過激だ。

人がもし動物と寝るなら、その人は必ず殺されなければならない。その動物も殺されなければならない。

旧約聖書 レビ記 20章より引用


このような背景からか、キリスト教圏では動物とのウコチャヌㇷ゚コㇿを禁じる法律が当たり前のようにある。しかし日本には存在しない。

動物との性行為を禁じる法律も、日本には存在しない。だから動物性愛も獣姦も、違法ではないし合法でもない。実は、これは世界的に見ると非常に珍しい。法律で禁じられていない地域の方が少ないからだ。(中略)たとえばフランス、ベルギー、ノルウェー、オランダ、デンマークは、それぞれ2004年、2007年、2008年、2010年、2015年にこれを違法と定めている。

『聖なるズー』より引用 濱野ちひろ著


私たちの価値観や法は、文化や宗教観を基に作られている。ヒロインが姉畑の行為を受け入れられないことも、必然のように思える。



理解に苦しんだ一冊

姉畑先生のことを記事にしたいと思って読んだ本が、先にも引用した『聖なるズー』だ。軽い気持ちで図書館から借りてきたのだが、完全に私の理解から外れた世界の話で、内容を咀嚼するのにとても時間がかかった。

本著は動物を愛し、そして動物に性的指向を持つ人たちについて書かれたノンフィクションだ。具体的にはイヌを妻と紹介する男や、ネズミやウマに恋する人々が登場する。


なかなか理解が難しいのだが、本著では動物とのウコチャヌㇷ゚コㇿをBeastiality獣姦Zoophilia動物性愛の2つにカテゴライズしている。Zoophilia側からの主張ではあるが、両者の具体的な差異を以下に示す。

Beastiality;
・動物のパーソナリティを軽視する
・動物とのウコチャヌㇷ゚コㇿに同意がない
・動物とはウコチャヌㇷ゚コㇿありきの関係

Zoophilia;
・動物のパーソナリティを重んじる
同意のないウコチャヌㇷ゚コㇿはしない
・そもそもウコチャヌㇷ゚コㇿをする前提でない

『聖なるズー』より要約


「動物とのウコチャヌㇷ゚コㇿの同意」というの文章を初めて読んだ時、私の頭の中にいるイマジナリー・ミルコ・クロコップが全速力で駆けつけてきた。意味が分からなすぎる。

My imaginary Mirko Cro Cop:画像引用先



しかしZoophiliaたちは、パートナーの動物とは自然とそんな感じになる、と主張する。その雰囲気を感じ取るためには、相手もある程度コミュニケーションが取れる動物種であることが必要なので、Zoophiliaの性的対象動物はイヌとウマの2種で88%を占めている。

「犬とのセックスは、自然に始まるんだよ」
(中略)
「あなたがセックスをしたくなったとき、そう都合よくオス犬もしたくなるものなの?」
「違う。犬が誘ってくるんだよ。犬が求めてくるんだ」

『聖なるズー』より引用 濱野ちひろ著


このように、終始理解が追いつかない話が続くのだが、Zoophiliaの理屈の全てが意味不明というわけではなかった。
彼らは動物との対等性を最も重要視しており、それを軽視するBeastialityを嫌悪している。もしかしたら、一般的な愛犬家の振る舞いにも疑問を抱いているかもしれない。

例示されていたのが、ペットの去勢手術だ。

昨今、日本では多くの飼いイヌが、ストレスの軽減や病気の予防,そして飼いやすくなるといったメリットを理由に、当たり前のように去勢される。これに「イヌは人間の5歳児程度の知能がある」という言説が加わり、多くの愛犬家は飼いイヌが老犬だろうがなんだろうが、イヌを子供のように接する。この場合、イヌの性欲は受容されていない。

対してZoophiliaらは、成熟した個として全ての動物と接する。イヌに性欲があることは当たり前であり、そして彼らが主張する、お互いの同意が得られたパートナーとだけウコチャヌㇷ゚コㇿを行うのだ。

果たしてどちらが、イヌのパーソナリティを尊重しているといえるのだろうか。

正解などない


姉畑先生の思想はZoophiliaに近い。全ての生き物を個として美しいと主張し、人間よりも動物に性を感じる彼は、生まれながらのZoophiliaだったのかもしれない。

しかし彼は、動物とのウコチャヌㇷ゚コㇿの同意を取らない。また自分の感情や行為を受け入れられず、行為後に相手の動物を殺してしまっている。ひょっとすると、彼はZoophiliaとBeastialityの間で揺れ動いていたのではなかろうか。

自分の本質がアブノーマルと知った彼は、自らを醜いと表現し、そしてそこから脱するために、動物とのウコチャヌㇷ゚コㇿを焦っていたのかもしれない。

彼にはウコチャヌㇷ゚コㇿしかなかった:『ゴールデンカムイ』12巻より引用 野田サトル著



愛と差別

姉畑先生やZoophiliaのことを考えていた時、私の頭の中に、ある漫画のワンシーンが思い出されていた。その漫画は『ヴィンランド・サガ』で、王子殿下が愛する教育係を失った際に、神父と愛について話をする場面だ。

神父は王子殿下に、愛の本質が死だと語る。
死者は憎むことも殺すことも奪うこともせず、その肉を獣や虫に惜しみなく与え、風にさらされ雨に打たれても一言の文句も言わない。それこそが本当の愛であり、生者の愛は差別に他ならない、というのが神父の主張だ。

「……ならば親が子を…夫婦がお互いを、ラグナル教育係が私を大切に思う気持ちは一体なんだ?」
差別です。王にへつらい奴隷に鞭打つことと、たいしてかわりありません(中略)教育係はあなたひとりの安全のために62人の村人を見殺しにした。差別です」(中略)
「なんということだ……世界が……神の御業がこんなにも美しいというのに…人間の心には愛がないのか

『ヴィンランド・サガ』6巻より引用 幸村誠著


昨今、性的マイノリティーを理解し共生する社会を目指す動きが活発である。しかしLGBTQの中にはZ(Zoophilia)は含まれていない。そしてこの先も、Zが含まれることはないだろう。

性的マイノリティーという広い意味ではZoophiliaも同列に考えられてよいはずなのに、私を含む多くの人々はZoophiliaや姉畑先生の性的指向に対して理解を示そうとすら思わない。彼らの主張や愛が真実かどうかは重要ではなく、私たちの文化や宗教観に裏付けされた価値観に合うかどうかでしか判断されない

そして動物のパーソナリティを重要視するZoophiliaとて、完璧な愛に溢れた人々ではない。彼らだって苦手な虫は殺すし、彼らの主張する動物とのウコチャヌㇷ゚コㇿの同意だって、本当に得られているとは限らない。動物はしゃべらないのだから、誰もそれを証明出来ない。


世界は美しいが、人間の心には愛がない。

たかが漫画の一節ではあるが、この言葉は時に私をギュッと苦しめる。



まとめ

今回の記事で私が主張したいことは、真実の愛はどうだとか、LGBTQがどうだとかを語りたいわけではない。全く無い。そんな大層なこと、私などが語れるわけもない。

主張したいことはたったひとつ、分かった気になるのはやめたほうがいい、ということだけだ。


例えば性的マイノリティーについて、LGBTQの概念が分かれば良いと考えがちだが、姉畑先生やZoophiliaのことを思えば、それですら不足している。そして、彼らのことを認めるかどうかを考える時、心に愛のない私たちは個々の価値観で差別することでしか判断できない。私達には絶対的に正しい判断など出来ないのだ。


ならば、ちょっとした理解だけで人を蔑み傷つけぬよう、そしてなによりイキらぬように、いつも心にダニング=クルーガー効果を思い浮かべる必要がある。

この効果を定義したデイヴィッド・ダニングとジャスティン・クルーガーによって2012年に行われた「なぜ能力の低い人間は自身を素晴らしいと思い込むのか」という調査によれば、能力の低い人間には以下のような特徴があることが分かった。

・自身の能力が不足していることを認識できない
・自身の能力の不十分さの程度を認識できない
・他者の能力の高さを正確に推定できない
・その能力について実際に訓練を積んだ後であれば、自身の能力の欠如を認識できる。

『ダニング=クルーガー効果』Wikipediaより引用
ダニングクルーガー効果:Wikipediaより図引用


ちょっとした知識で判断したりイキったりすることは、本当に恥ずかしい。姉畑先生に恥じないよう、私たちも迷い苦しみながら、世界の美しさや愛について、少しは理解する努力を行うべきかもしれない。

あと、今回の記事で何回ウコチャヌㇷ゚コㇿと書いたかは、数えないようにしたい。

それでは。

(今までの記事はコチラ:マガジン『大衆象を評す』

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