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ローカルあるある早く言いたい

灯台下暗し。5年目、今の暮らしにも慣れすぎたせいか、その良し悪しがよくわからなくなってきた。

あの頃のようなフレッシュさはない。以前であればガンガン進めようとしてた家の事もあまり手を出さなくなる。だから、先日のような模様替え一つとっても何かきっかけが必要なのだ。

完全に自分がこの地の住人になり果ててしまわないように、「①外に出る」「②外から人を迎える」を意識はしてるものの、コロナ禍でその頻度はくそほど減ってしまったので、余計に感覚が鈍っちゃってはいる。

自分の感覚だけで暮らしていると、何が人とズレているかを認識できなくなる。何がグッドポイントなのか、気づけなくなる。基本、評価は、自分で主張するよりも、他人に委ねたいことばかり。

内(鈍感)と外(敏感)の絶妙なバランスを保ちながら、精神的にも物理的にも行き来ができる日々が取り戻せるよう願うばかりだ。

「#ローカルの周辺あるいは辺境」を何本か読んでくれてる人はもうお気づきだろうが、前半はただの日記でしかないのでご注意を。後半のこっからローカル関連の何かを記録していきます。

ローカルあるある「狭く深くより広く浅く」

地域のアクティビティを記録する人がいる。ただその記録する人も、対象がなければ役割を全うできないので、記録される人の取り組みがそもそも尊いのである。

といったことを、昨日は書いていたと思う

ローカルにおけるメディア問題を挙げるとき、「①記録する人と記録される人のバランス」「②人材不足でどちらも一人でやらなくちゃいけない構造」「③記録する技術に対する意識」がある

さらには、以上の問題意識を挙げてみたんだけど、特に②については現在進行形で痛烈に感じていること。

アクティビティをつくるだけじゃなく、その記録も自分(たち)で取って発信していかなくちゃいけない。田舎は厭でもマルチタスクである。分業制などと軽々しく言ってられない。

いつの間にか”百姓”のような動き方になっていく。人材も技術も不足しがちだから。ニッチな専門性の深さよりも、ざっくりでも広くこなせる人の方が重宝される。

そんな中では肩書は邪魔くさい。だから、「職業よりも職能を」を個人的には推しているわけでもある。

さて、話は逸れたけど、知人のTwitter経由で読んだnoteにグッとくるものがあった。こちら。

「考える人」と「手を動かす人」を分けよう

心の中の拍手喝采、すんごい同意させてもらった。けども、現実を見れば、「その二つの作業を分けたほうがいいのは痛感していても、マンパワー的に両方やらないといけなくて、新たな座組を考えるための時間をどう確保するか困るよねぇ~」と気づかされる。

こいつは、その活動エリアは違えどローカルアクティビティに関わってる人から幾度となく聞こえる声でもあり、いわば「ローカルあるある」と言っても差し支えないかもしれない。

まあ本当の問題としてあるのは、「分業できない」でなく「分業できるほどに単価が高くない」ではないだろうか。人件費を確保できればブレイクスルーできるはずのことも、各プロジェクトにおける予算をかけれない罠がある。

だからこそ、物事を進めるときの前提となる座組ないし構造を気にかけて、アプローチする姿勢が求められる。ちゃんと実績をつくりつつ、段階を踏んで、「考える人と手を動かす人を分けられる」環境をめざしていくのだ(ぼくはヒイヒイ言いながらそいつをめざしている)。

「記録」についてのまとめとしては、理想は、「記録するやつと記録されるやつがタッグを組めるチームビルディング」である。キン肉マンとミート君の関係のような。

そんで、他に言いたい「ローカルあるある」っあるかなーと馳せるもすぐに出てはこないから、むしろ他のだれかが考えるローカルあるあるを早く聞きたい気分であります。

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