自分セオリー
人を疑うことの裏にはなにがあるのだろう。
私は疑うということがなくて、
するとしたら、直感でこの人嘘ついてるなって感じる時。
常に論理立てて、「なぜ、なに、なんだろう」って
自分のセオリーに基づいて物事を見る人はきっと、
人間関係においても、猜疑心からはいるのだろう。
ふわっとしたものや、ムードとかは関係なくて、
事実や道理に重きをいく。
雰囲気が悪くなったときても自分の理論に反することが許せなかったり、臨機応変ってことが起きないように徹底する見たいな。
クソ真面目ってやつなんだと思う。
そんなコントロールが難しい人が近くにいる私は
衝突もおおい。
ジョークで流すと、ブチギレるし
こうと決めたらこうで、雨が降ってたらリスケする私とは
私と相性は合わない。
そんな私は適当に見えるんだろう。
近しい人なら、なおさら自分と重ねて
自分セオリーに当然従わせようとする。
窮屈でしかたないのだ。
そこで身につけたのは、近しい人だからという”枠”をなくした。
一定の境界線をもつということと、その”自分セオリー”というものは、一人ひとりが持っているということを意識して、
自分の居心地を大事にして関わるということ。
避けるのでもいいと思うし、
自分が楽しんで、「この人こうしたら、どういう出方をしてくるのか」って面白がるのもいいと思う。
そこで傷ついたら、むかついたら、悲しくなったら、
一旦そう感じた自分を客観的に受け止めて、
痛みを癒して、
同じ方法ではなく、違うものを引き出しから出してきてさ、
また、試してみればいい。
どう調和していけるのかは、きっと経験の数なのだろう。
そこで誰かを傷つけていることを知ったり、
思い通りにはいかないということ。
それを認めた上で、どう関わっていくのか。
自分を曲げられないのであれば、
どう伝えれば従ってくれるのか、など創意工夫して試して
知っていく必要があると思う。
一人ひとりが皆個性があって、自分はどうしたら
うまいこと調和して、円滑に生きられるのか。
心を大きく開いて、ぶつかって生きたい。
せっかく肉体があるのだから。
oli
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