先日の友人の結婚式のときだ。祝辞を頂戴する際に、少し頼りなげな中年の男性が現れた。 挨拶や風貌もどこかソワソワしてるような感じで、お世辞にもパリッ!っと決まっていたとは言えないけれど、話の内容に私は吸い寄せられた 「新郎の良いところは、…何と言いますか…、えーっと。…分かるを、諦めないと言いますか。とにかく自分が納得いくまで、つまり分かったと判断するまで先へ進まないんです。どんなに小さなことや簡単なことでも 『それはどういうことですか?』 『分かりません、教えてもらえ
物事を忘れてしまうということを、どうしても否定的に捉えてしまうのではないでしょうか? 私も、何となくはそちらよりではあるのですが・・・ しかし、次のようなことを述べている方がいらっしゃいます。 『本を読んだら、忘れるに任せる。大事なことをノートしておこう、というのは欲張りである。心に刻まれないことをいくら記録しておいても何の足しにもならない。』外山滋比古 アインシュタインも「なぜ、ノートをとるのか。大切なことは脳に記憶されているのに」といった言葉を残していたように思いま
最近、寓話集なるものを読んでいるのですが、これがもう最高に面白いんです。 その中に以下のような話がありました。 『 ある旅人が村を目指して歩いている最中に、畑で農作業をしていた農夫を見つけました。 農夫は一生懸命に畑を耕していました。 そこで旅人はこう尋ねました。 「ここから村まではどのくらいの時間がかかりますか?」 ・・・農夫は聞こえている様子でしたが、何も答えませんでした。 旅人は少し無視されたのかと思い、ムッとしました。 が、先を急ごうとそのまま立ち去ろうとしまし
最近、つくづく自分の視野の狭さを実感します。 物事の色々な見方を子どもたちに教えてもらっているような、そんな時さえあります。 みなさんは 「雪が溶けたら何になる?」 という問いに対して、どのような答えを出すでしょうか 水になる? あったかくなる? 春になる? 様々な解釈の仕方によって、実は多様な解答が用意されていたりもします。 では、どの答えが正解なんでしょうか? そんなの、その場の環境次第じゃん。って言われてしまいそうですが・・・ そうではなく、最近は『そもそも問自体
あらゆる世代の日本人がよくつかう言葉で、プロの通訳や記者のあいだで「外国語に訳しにくい」 と問題になるマジックワードがあるそうです。 それが「しょうがない」なんだそうです。 本当に恐ろしい言葉で、一言ですべての論理や倫理をすっ飛ばしてしまう言葉だと思います。 日本にこの言葉が拡がった背景として、ある論文では以下のような考察がなされています。 『自然のなす業でいちいち気に留めてもしかたがないという考え方が、我々日本人の心の中に根付いているのではないだろうか』 つまり地震や
最近、日本人の気質について考えることがあるのですが 面白い例え話があります。 高速道路の建設を考えた時 海外の人々は遠方の地へなるべく早く移動して、その先で時間をたっぷり使えることを幸せと考える。 しかし、日本人は高速道路が完成しても、すぐにもっと早く移動することができる道路を作ろうと考えるんだそうです。 本来、移動時間を短縮することでその分で浮いた時間を自身の有効な時間として消費することを目的に建設されているはずです。 どうやら、そのことがいつの間にかスッ飛んでいっち
人の持つ感性ってやはり違いがあるように思います。(当たり前すぎますが・・・) 例えば、現代人が使う「早い」という言葉と、産業革命前の「早い」という言葉では感覚が違ってくるように思います。 なぜなら、思い浮かべるもの(例)が全く異なるからです。 例えば、現代人であれば 「早いものと言われたとき、何を想像しますか?」 と問われると 『ジェットコースター、ロケット、新幹線』 などを思い浮かべるでしょうか? しかし、過去の人たちではそういった発明のあった車両を知りません。 もし
ここ2年間で私は中学2年生のつくる文に触れていて、何だかずっと違和感がありました・・・ (実はずっと以前から、前任校で高校生のつくる論文なんかを読んでいてもそうでした) とにかくモヤモヤして分からずでいたのですが、何となく糸口が見えてきました。 言語学者である金田一秀穂さんをご存知でしょうか? 彼の指摘が実に的を得ていて、面白いなと思いました。 『日本の教育は子どもたちに感情を表現する文章ばかりを善かれと思って指導している。小学校では感想文のようなものばかりを書かせる。
ここのところ、こどもたちの授業時の集中力が低下しているように感じます・・・ 6月のじめじめした環境が影響しているのか・・・ それとも? ところで、かのマンガの神様と言われた手塚治虫は 「一流のマンガが描きたいんだけど、どうしたらいい?」 という質問に対して次のような言葉を残しています。 『いい映画を観て、いい音楽を聴いて、いい小説を読むこと。マンガからマンガを学ぶな。』 と。 新しいことを創造することに必要となるのは、こういったことであると思います。 何かに夢中になっ
今年も七夕が近づいてきました! 最近になって、初めて気づきました・・・ ここのところ子どもたちの願い事を読んでいて、思ったのですが 最近の子どもたちって物欲関連の願い事を書かなくなったように思うのですが・・・私だけ・・・? 「ゲームが欲しい」 「新しい靴がほしい」 「お金持ちになりたい!」などなど 飽和な時代で物には恵まれているということなんでしょうか? 面白いです。物を手に入れたいという具体的な欲望がなくなると、どうしても抽象的な願望を抱かずにはいられません。最近よく見
子どもたちに行事について以下の2点について考えさせることをしています。 ①ルールとマナー ②自立と集団行動 それぞれ並列させているのには、理由があります。これらには意味合いにも差異があり、場面場面で違いが生じ、一様にこれが正解というのを断定しにくいという性質があります。 それを行事の中で感じさせてやりたいと思っております。 例)自分一人で動くときは考えなくても良かったものが、集団行動の時になると必要になってしまうこと など 話は少し変わるのですが 以前、私が勤めていた学校
最近、なんとなーく。 本当になんとなーくなんですが、少し自分勝手なこどもたちが増えているような気がします。 勝手に自分の解釈で物事を理解し、行おうとする。 そんな感じです。 自分の中で多くの意見や考えを戦わせていないんですね。 (これができる子は放っておいてもドンドン伸びていくのですが・・・) そういう連中の言葉には説得力というものがなくなると思います。 例) ・掃除は自分の持ち場が終われば終了。残った時間は何をしても良い。 ・昼休みのグラウンド開放。雨で使えない。ピロ
大人になっていくと、褒められる叱られる経験というのがなくなっていきますよね。 斯くいう私も・・・なくなってきたような。 (いや、妻からは常々に叱られているか・・・) しかし、人は人から褒められ叱られ続けることが必要だと感じます。 そういう意味では何か習い事や稽古をつけてもらうことが良いのかもしれません。 でも、ここをうまく自分の力に変えて、吸収していく人が成長できる人の特徴だと言われます。 例えば、褒められる際。 3流はすぐに調子に乗る。2流は「いえいえ」と謙遜する。では
学校の中では、しばしば各クラスで人間関係の拗れが発生していることがみえてきます。 まだまだ人との関わりの経験が少ない生徒にとっては至極当たり前のことであると思います。 しかし、これは子どもたちにとってはチャンスだと考えます。 そして、大人としても、関わり合う者たちの中で多様な価値観の受容を促進できるように働きかけていけばいいように思います。 超少子高齢化により国の未来を担う若者は減少を辿ることに待ったなしです。 小さく狭い日本という国が発展してきたのは寄ってたかって知恵を
最近、読書をしていて考えたことがあります。 『外科医、島へ 泣くな研修医6』中山祐次郎 を読んでいたのですが、主人公の雨野隆治は東京で外科医としての経験を積んでいたのですが とある機会から、島の診療所への半年間勤務を勤めることに。 もちろん、島の診療所には東京の病院のように設備が整っているわけでもなく。東京ではいつも執刀できていた手術も行えない状況が多発します。 つまりは、島では医療の限界が常に見えてしまうというシチュエーション。 しかし、そんな中でも、島の住民にとっ
以前、職場で校長先生が次のようなご指摘をされたことがありました。 特別教室を使用している際の廊下にズラーっと並んだ上履きを観ていたそうです。 大部分は綺麗に整えられて置かれていたようですが、中には裏返っているもの、向きが反対になっているもの、重なったものなど様々。 いかがなものか・・・と。 私は当時、毎朝、下駄箱を見ていました。 さすがに上履きと下履きを一緒にして履いている者はいませんでしたが 横から眺めてみると箱からはみ出して置かれているものもあります。(靴のサイズの大