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分かるを妥協しないこと

先日の友人の結婚式のときだ。祝辞を頂戴する際に、少し頼りなげな中年の男性が現れた。

挨拶や風貌もどこかソワソワしてるような感じで、お世辞にもパリッ!っと決まっていたとは言えないけれど、話の内容に私は吸い寄せられた


「新郎の良いところは、…何と言いますか…、えーっと。…分かるを、諦めないと言いますか。とにかく自分が納得いくまで、つまり分かったと判断するまで先へ進まないんです。どんなに小さなことや簡単なことでも


『それはどういうことですか?』

『分かりません、教えてもらえませんか?』


と、悪びれもなく、恥ずかしげもなく爽やかに聞いてくるんです。

そんなとき、あーーこいつは得な奴やなぁーって羨ましくなるんです。」


初めは何を伝えたいのか読み取れませんでした。しかし、それが逆に端を発したのか話に完全に興味を惹かれていました。




分かるを諦めない?




この言葉が自分の頭の中で未だに、

ガツーーーンっと音を立てて、波を荒立てている。そんな感じです。

私なりにその話を噛み砕いてみた。

うまく落とし込めたかは分からないが書き留めてみる。


まず、知人に教員がいるのだが、興味深い話を聞いた。彼と彼の先輩教員とのやりとりである。



知人「生徒からは『先生の授業分かりやすいなー!』とか言われるんですが、でもそのクラスの学力はついていないというか・・・結果がついてこないような気がしているんです」


先輩教員「分かりやすい授業って、全然意味がないんやけど分かるかなー?」


知人「えっ!?そうなんですか?」


先輩教員「そうだよ。だって、生徒は分かっていると思い込んでいるときは安心仕切っちゃうでしょ?だから考えることを止めちゃうわけ。要は頭を使わなくなるのよ。全然つかわないのよ。」


知人「なるほど・・・たしかに・・・、でもそれが学力がつかないことにも結び付くんですかね?」


先輩教員「そうやなー、どうやろ?でも少なくとも、分かっているという甘い安心感に包まれている以上は何も考えていないのと同等ってことやろ。だから、自分で考えることをしていないし、その授業時間中は自分で考えて問題を解決に導くという練習ですらないわけやん?受け身中の受け身や。写経みたいなもんやで。」


知人はグーの音も出なかったそう。




分かったという状態はどういった状態なのであろうか?


少なくとも自分の言葉でその事物を説明できないと、分かったということにはならないのであろう・・・・


さて、別の角度からも考えてみる。


 先日、私は保険の申し込みで保険屋さんとやり取りをしている際のことである。相手はやりての営業マン。会話の中でここぞと言わんばかりに理解に苦しむ難しいカタカナビジネス用語を多用してくる。


そして、会話中に気づいた。


自分がその言葉達に対して、曖昧な理解のままであるにも関わらず、「はい」「そうですよね」と相槌を打ち、あたかも分かっている自分という者を演じていることに。


はっ。とした。


見栄を張って、虚勢を張って自分がよく見えようと取り繕うばかりに


「分かる」を妥協していたのだ。


そうか、そうだ、こんな経験は他にもあった。




小さく見ればこれは日本人のコミュニケーションの際にも生じているのではないだろうか?


最近よく聞く若者言葉に


「それな!」というものがある


同調圧力の強い日本ではありふれたセリフかもしれないが


この言葉の裏にも相手の言葉の本質を理解していない状態でも何となく相手に合わせておかなければいけないという感情から、セリフを吐き出しているのではないだろうか?


つまり、分かるを妥協しているのである。




学問というのは尊いものである。


最近はそのように考えるようになった。


私はすぐに「分かった」と認識し、納得するのではなく


きちんと落とし込めたのかどうか自分に問いを何度も投げかけたいと思う。


この投げかけを諦めなかった人こそが新しい智の領域に到達するのであると信じてやまない。


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