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多様性について、どう説くか?

学校の中では、しばしば各クラスで人間関係の拗れが発生していることがみえてきます。


まだまだ人との関わりの経験が少ない生徒にとっては至極当たり前のことであると思います。
しかし、これは子どもたちにとってはチャンスだと考えます。
そして、大人としても、関わり合う者たちの中で多様な価値観の受容を促進できるように働きかけていけばいいように思います。


超少子高齢化により国の未来を担う若者は減少を辿ることに待ったなしです。
小さく狭い日本という国が発展してきたのは寄ってたかって知恵を出し合い、互いを認め合い、協力をしてきたからだと言われております。


「多様性」という言葉は最近になって出てきたものではなく、本来はもっと昔から存在しました。意識されることなく自然と大切にされてきた文化にも関わらず、忘れ去られたがために現在では合言葉のように口にされるようになりました。
今目の前にいる生徒たちは少ない仲間たちと手を取り合って進んでいくことが最善の策となりうる状況となっていることを様々な場面から学ばせてやりたいなーと、漠然と考えている最中です。



人付き合いに正解はないと思います。
「普通は〜だ」「多くの人は〜している」という発想は時に、個性を殺す言葉の武器と成り得ます。私たちは無理に子どもたちにあたかも正しいかのような方法や策を与えるのではなく、彼らの特性を理解し、個別最適な答えを一緒に考えていけるとベストではないでしょうか。

そんなことを考える懐の深い人となりたいですし、そんな大人が増えるといいなーと考える今日この頃でした。


さて、多様性を理解するのに面白い例があります。
よく生徒の話を聞いていると、次のような言葉が出てきます。
「なんや、先生によって言ってることちゃうやんかー」
「結局、どれが正解やねん!」
といったもの。


これは、表面上では
『学校のルールに則った運営ができていない』と批判を浴びそうな案件ではありますが、私は違うように思います。
逆に、
『先生も人です。だから、違うことを考えていて目の前の君たちに伝えたいことは千差万別。』
以前にも書いたかもしれませんが、同じようなことを機械のように伝えるような教師からは何も学びたくないですし、何も学べないと思います。
違うことを言っているから、面白い。
異なる価値観を学べる。


こどもたちにもこういった多様性という概念を少し考えさせるきっかけとなるようなことが日常にもたくさん転がっていること。
しっかりとも定めて発信していきたいなと、思いました。

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