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自分の中に「多」をつくる習慣

最近、なんとなーく。
本当になんとなーくなんですが、少し自分勝手なこどもたちが増えているような気がします。



勝手に自分の解釈で物事を理解し、行おうとする。
そんな感じです。



自分の中で多くの意見や考えを戦わせていないんですね。
(これができる子は放っておいてもドンドン伸びていくのですが・・・)
そういう連中の言葉には説得力というものがなくなると思います。



例)
・掃除は自分の持ち場が終われば終了。残った時間は何をしても良い。
・昼休みのグラウンド開放。雨で使えない。ピロティーであればちょっとくらいボールを使って遊んでもいいだろう。
・誰も見ていなければ、多少のケガは別に自分の責任でいいし、廊下は走っても大丈夫だ。
・授業中、「前で人が話をしているときは聞きなさい」と言われたから、前で話していない時は喋ってもいいだろう
などです。



視点が自分自身の1点だけで、もうちょっと違う目線からも考えてみるといいのになーっていう者たちです。
私だけかな?・・・
こういうときには私はカレーの話をします。 !?!?



よく視座、視野、視点の話はあると思うのですが
それにまつわる話です。

みなさんは
「おいしいカレーを作るにはどうすればよいと思いますか?」
と聞かれたとき、どのように答えるでしょうか?



おそらく
「素材にいいものを活用する」
「材料の分量を間違えないようにする」
「隠し味を入れる」
といった回答を用意されたんじゃないでしょうか?

子どもたちに聞いてもだいたい同じような答えを言い出します。

しかし、これは非常に偏った見方しかできていない証拠で、三つの『視』を意識するといろいろな部分を工夫することで「おいしさ」を際立たせることができることに気づきます。

例えば、おいしいカレーを作りたいのであれば
・食べる場所を工夫する →家のカレーがなんだかんだ言っても一番うまい!、こ洒落た店で、本格派のインド風の店内で など
・食べる時間はいつでしょうか? →ちょうどお腹が減ったとき、夜まで頑張った後の夜食としてのカレー など
・付け合わせの工夫
・分量
・お皿は?スプーンは?
・盛り付け
といったところです。

どうしてもおいしいということを指定されると「味」にこだわりを持ってしまうため、食材の方ばかりに気が行きがちなのですが・・・


意外と人間の感性は面白いもので、五感をつかっておいしいを感じ取っています。
よって、場所や、見た目、におい、盛り皿など一見すると味には関係なさそうなところに工夫をいれることでも「おいしい」を表現することができます。
これって、広ーく物事を見ようとしていないとできないことだと思います。


自分の中でたくさんの意見をもつ。
そして、混乱するくらい戦わせる。
この動作があってはじめて身勝手な判断や、倫理観の欠けた判断をしないように周りに配慮した行動がとれるようになっていくのではないでしょうか。

気を付けてあげたいものです。・・・・

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