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歌集『義弟全史』(土井礼一郎氏)を読む


『義弟全史』は、かばん所属の土井礼一郎氏の歌集である。

意味深なタイトルが気になり、
惹きつけられた読者も多いのではないかと思う。



選(6首)

虫たちの哲学・鳥の幸福にとりかこまれて人のくるしい

21ページ

虫や鳥と人の感覚や立場が逆転しているような書き方に工夫を感じた。

上句は虫の声や鳥のさえずりだと読んだ。

また、虫と鳥を両方哲学や幸福とせずに、それぞれに哲学と幸福とで分けているのも印象深い。

人に割り当てられているのが、くるしいであり、一番本能的で動物的である。
その点に意外性があり、なおかつ哲学や幸福とは違い、ひらがなである。


東京のまんまんなかにいっぴきのパンダを置いて出ていくわれら

45ページ

着眼点が面白い一首。

上野動物園のパンダだと仮定して読んだ。
上野動物園のパンダは一匹ではない時もあるので、違うかもしれない。

「置いて出ていく」という表現が印象的で、
飼われている生き物を見に行くことは「置いて出ていく」という見方も出来るのかもしれない。

たったひとつわたしの日はあるどうしてもかぞえきれないほどの升目に

60ページ


カレンダーの誕生日が「たったひとつのわたしの日」だと読んだ。

カレンダーは升目なのでそう考えたが、「数えきれない」の部分が意味深。
一年だけではなく一生分の日付の升目かもしれない。
一生分の日付だとしても誕生日は一回だ。

もうすこしねむっていたいどんぐりもどんぐりに棲む虫の子さえも

67ページ

絵本のようなのどかな景だが、
それだけではない見どころがある。

その理由は多々ある。

・誰に起こされるのか。起きる時間だからか、他者の介入はあるか。
・どんぐりは良いが、その中の虫まで考えることは稀。
・効果的なひらがな表記。
・どんぐりにすむが、住むではなく棲むとなっている表記の工夫と、
それにより生み出される一首の雰囲気。

深掘りするほど味わい深い一首。

犬に待てする姿にて春の野に大仏だけがたたされている

95ページ

大仏様のあのポーズは、確かに「待て」にも見える。
犬にするポーズなのに、「大仏だけ」で、犬の不在が強調される。
大仏に待てされるサイズの、大きな犬がいたらそれはそれで怖いが、「待て」は通常サイズの犬でも有効だろう。

そして勝手に「実在する景なら牛久大仏の事かな」と思った。

ぼくたちはおててのふしとふしをあわせてふしあわせのままのろぼっと

122ページ

パロディーだけではなく、そこに工夫を追加した一首。

お仏壇の長谷川のCMで
「おててのしわとしわをあわせてしあわせ」
と女の子が言うものがあった。
そのCMのパロディーだけではなく、
ろぼっとが登場した点が、追加の工夫である。

また、パロディー部分を取ると
「ぼくたちはろぼっと」
とも読める。
※「のままの」は接続部だとして。

AIに頼りすぎる人類への警鐘かと思ったが、この歌集は昨今のAIブームの少し前ごろに出版されているため考えすぎだと思う。

「ろぼっと」のように主体性や自主性のない生き方をして、
言われた通りに素直に「ふしとふしをあわせて」いたら「ふしあわせ」になりますよ、というメッセージも感じた。


全体評

鑑賞するほど味わい深くなる短歌が多かった。

明るいだけではなく含みがあるなど、
いい意味での「一筋縄ではいかなさ」
に読み応えがあり、勉強になった。


追記(蟻について)


選では取り上げなかったが、
蟻が出てくる短歌が多かった。

そしてその蟻も象徴的な暗喩として使われている印象だった。

一首引用すると

気がつけば蟻のおしりのようにして髪を結う人ばかりが歩く

土井礼一郎

この場合だと、黒くて丸いシニヨンの髪型の喩だけではないと思う。
蟻の持つ社会性や働き蟻に例示されるような労働のイメージがある。

総合すると、社会で働く姿を蟻の喩で表しているのではないかと思う。
それを踏まえて読むと、明記されていないが、就活生が沢山居る景に思えた。

この短歌における蟻はそのように読めるが、他の短歌でも蟻が使われているものがある。

そのため、それぞれ読み比べや考察するのもこの歌集の楽しみ方の一つかもしれない。


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義弟全史 https://www.amazon.jp/dp/4862727387

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