イチゴと雷雲
(2020/04/30 思い出し日記)
空を見上げていた。知らない町のベンチに寝そべって。
町のメイン通り。200mもない一本道の真ん中に広場があった。
ポツンと置いてある1台のベンチの上で私は横たわり空を見ていた。
どうしてこうなった。
後悔の始まり
シドニーでの生活が半年を過ぎ、2nd visaを取得するため、ファームジョブを探してオーストラリアの東海岸にあるブリスベンへやってきた。それが1週間前。
働くためのファーム情報収集と、「せっかく来た初めての場所なのだから観光をしよう!」と意気込み、バックパッカーホテル(以下バッパー)の入口をくぐった。
バッパーはワーキングホリデー(以下ワーホリ)や観光を理由に国内外からの客が訪れている。
そのため、ファーム以外にも美味しいレストラン、絶景、他の町のことなど、いろいろな情報が集まる。
バッパーによっては直接仕事を斡旋してくれるところもある。
夏とブリスベン特有の蒸し暑さのためかリビングは半数が半裸、または水着で食事や酒を飲んでいる。
そんな光景を横目に私はブリスベンでの観光、友人との予定を整理し、街へ繰り出した。
ブリスベンの街並みは「さすが国内屈指の都市」というべきかビルが立ち並び、街の中央を流れる運河は両脇に博物館や美術館、プールなどを構えている。
シドニーと比べると全体がややこじんまりとしているが川や大きな公園があるため、圧迫感は少ない。また、電車で1時間半ほどのところにサーフィンで有名なゴールドコーストもあるため、サーファーや留学生が多い。
私はそんな新しい環境に浮かれながら日々を謳歌していた。
到着5日目。私は焦っていた。
わかっていたことだが、2月というのはファームジョブを探す上でよくない。なぜならオーストラリアの2月というのは日本でいう8月〜9月ごろ。
ファームジョブは春から夏にかけてがピーク。以降は徐々に減っていく。
わかっていたはずだった。観光しながらも友人から情報を収集し、バッパーのリビングにいる他の客に話しかけたり、掲示物、ネット情報など 、わかる範囲はひと通り確認した。
が、「これだっ!」という決め手になる情報は手に入らなかった。
ファームジョブはワーホリの半数以上が経験しようとするであろう仕事で、理由は私と同じ2nd visaの取得。皆、この温暖な環境、海、給料の高さなどを求めて少しでも長く滞在したいのだ。
オーストラリアの主産業は観光と農業。政府としてもその労働力をアテにしている。農家も同じ。が、それをいいことに「悪質なファームジョブ」も多く存在している。
日本でいう「ブラック企業」というところ。
重労働に低賃金に未払い、突然の解雇、労働証明書のみ発行etc…
誰だってそんなところに行きたくない。それでも気づいたらそこにいる。
それがワーホリの多くが経験し、恐れていること。
私もその一人。
結果、決断ができず、それを忘れるように日々を楽しんだ。
焦りが増すのを打ち消すように。
誰もいないテーブルに腰掛け、いつも通りパソコンを開いた。その日もなんの成果なく、諦めて一人でビールを開けた。
頬杖をつきながら、右手をパソコンと瓶ビールの間で往復させて幾時間か過ぎた頃、背の高い眼鏡をかけた男が話しかけてきた。北欧っぽい彫りの深い顔に金髪。
「何をしてるんだい?」
気軽に話しかけてきた彼は、「一緒に飲もう」と私を一つ奥のテーブルに呼んだ。彼はラウリ。テーブルにはもう一人、シモという男がいた。彼らはフィンランド人。私と同じくワーホリのために来たらしく、そしてファームジョブを探していた。
つたない英語でやり取りをしながら、私たちは意気投合した。
「スタンソープって所のリンゴピックがいい仕事らしいぞ!お前も来いよ!」
「行くっ!」
私は即答した。
彼らは明日、私は明後日にスタンソープへ旅立つことになった。
あの時に一緒に行っていれば・・・
2日後、私はバスに揺られていた。ブリスベンから西に3時間、そこからバスに乗り換え南に2時間。
バス停も何もない町で、私は降ろされた。ここがスタンソープ。
晴天と辟易
大きなキャリーバックをガラガラ引きずりながら、店とそれ以外が交互に並ぶメインストリートらしき道を歩いた。200mもないその道を数度往復し、仕事の派遣事務所を見つけた。
ドアに大きく「CLOSED」と札のかかったそこは、確かに派遣事務所だった。扉は開かない。
到着早々、目的の一つが消失した。
いや、延期だろうか。
仕方がないので、スマホにメモしていたバッパーリストを開き、今夜の宿を探すことにした。4〜5箇所しかないバッパーの全てに電話をし、帰ってきた答えはどこも満室。
ネットでの予約も試みてはいたが、そもそも予約サイトがない。仕方なく、キャンプ場にも電話。キャンプ場ならテントを買えば寝とまりができる。が、キャンプ場も満室。というかいっぱいとのこと。
私は目的地に到着して1時間で目的を失い、寝る場所を確保できず、
ベンチに寝っ転がっていた。
空は晴天。鳥のさえずりを聞きながら
「これからどうしよう」「ここで一夜を過ごそう」「人生初の野宿か」
などとのんきに考えていた。
少し経って、ラウリとシモがやってきた。連絡をしておいたのだ。
彼らは心配そうに「仕事は?宿は?今日はどうする?」と聞いてきた。
私は「現状何も決まっていない。だけどまぁどうにかなるよ。」と
またのんきに答えた。
「ここに電話したか?」
「ここは?」
「とりあえず寝るところを探そう」
そんなに心配してくれる彼らがありがたかった。と同時に申し訳なくも思った。彼らは仕事が決まって、宿も決まり、やっと落ち着こうとしていたのに心配事を増やしてしまった。
「大丈夫だって!大丈夫。気にするな!」
と半ば追い払ったが、彼らは最後まで心配してくれた。
「わかった。頑張れよ。」
と言って。
彼らが去った後、またベンチに寝っ転がって空を見上げた。
思い出したように村上龍の「限りなく透明に近いブルー」を取り出して読んだ。
私には難しかった。
そっと本を閉じた。
スマホを少しだけいじって
また空を見た。
スマホは命綱。電源を切らすわけにはいかない。
通り過ぎる人たちの
(なんだあいつ)
という視線を感じながら、私はベンチに寝そべっていた。
雷雲と共にオザキ
少し風が出てきた。心地よい暖かさ。
突然、男が話しかけてきた。見た目は東南アジア系。背も高く、肩幅もしっかりとしていた。
少し怖かった。が彼が言ったのは
「5時間前にここを通った時もお前いたけど、どうした?大丈夫なのか?」
と。
びっくりしたが、今の現状を片言で伝えた。
彼は真剣な顔で聞いた後にスマホを取り出し、
「ここに電話してみろ。多分助けてくれるかもしれない」
と電話番号を一つ見せてきた。
「確か、日本人だったと思う」
といい、私が「ありがとう」というとニコッと笑って去っていった。
彼はオザキと名乗った。
夕暮れの手前、空に少しオレンジが混ざる頃、風がさらに強くなってきた。気温も少し下がってきた。
私は電話出来ずにいた。怖かった。突然の電話にびっくりしないだろうか。日本人じゃなかったらどうしよう。断られたら。人とのコミュニケーションが苦手な人にありがちな「不安だけを先に考えてしまうこと」が脳裏を渦巻いていた。
そんな心配はやり取りが始まらなきゃ意味がないのに。それどころではないのに。
夕日の手前に真っ黒な雷雲がはっきりと見えた頃、私は電話をかけようと決心した。雲が来るのは明らかだった。
勇気を出してメモした番号に電話をかけた。電話の向こうで
「Hello?」
と女性の声。やばいと思った。
英語はほとんど喋れない。
形式的な自己紹介をし、私は恐る恐る聞いてみた。
「Can you speak Japanese ?」
「Yes」
私は安堵した。もの凄く。
「本当ですか!?よかったです!」
思わず声が大きくなってしまった。あちらもびっくりしたようで
「あ、日本人?よかったー」
とお互い安堵した中で状況を説明した。
泊まる場所がないこと。仕事がないこと。オザキと名乗るアジア人がこの番号を教えてくれたこと。女性は理解したらしく、
「仕事はないけど、泊まる場所なら紹介できるかも」
と言い、向かいに行来てくれると言ってくれた。
「ありがとうございます」と何度も言って電話を終えた。
あたりが急激に暗くなり、夕日が去っていく直前、雷雲も手の届くほどに近くなっていた頃、少し薄汚れたセダンが広場の前に止まった。
電話した女性が迎えに来てくれたのだ。
女性は3人組で、これから彼女らが住み込みで働いているイチゴファームへ送ってくれるという。早速、車に乗り込んだ。
風は台風さながらに強くなっていた。
道中、改めて自身の経緯と彼女らの経緯やファームについて、そして「今はほとんど稼げないこと」を聞いた。それは覚悟していたし、仕方ないことだと思っていた。それよりも落雷と豪雨の中、ずぶ濡れで野宿をしていたことを考える方が恐ろしい。
突然、サイレンがなった。周囲は木々しかないのに。ライトがチカチカと車内を照らし出した。警察だ。
車を道端に止め、運転手が警察と話しをするために出ていった。何が何だかわからず、私は焦ったが、数分後、戻ってきた運転手は「後ろのライトが片方点ていなかった」らしい。
私に手を差し伸べたばっかりに罰金を払うことになってしまった。とても申し訳ない気持ちになった。
彼女らは
「この間点検してもらったばっかり。整備したやつが悪い。君は悪くない」
と言っていた。少し罪悪感が減った。
30分後、暗闇から明かりがぽつぽつと見え、そこには数え切れないプレハブが立っていた。目的地への到着だ。その頃には豪雨と落雷の音が鳴り響いていて、改めてオザキに感謝をした。
スーパーバイザーと呼ばれるリーダー的な韓国人に案内され、プレハブに案内された。6畳ほどのスペースにベッドが二つ。簡易的な靴箱とクローゼットがあるだけ。
韓国人と日本人の男性が住んでおり、一時的に3人で住んでくれとのこと。
3人も寝ればスペースはなかった。
とりあえず「明後日から仕事だ」と言われのでその日は就寝した。
リンゴのおじさん
次の日、朝の5時ごろに起きた。
同居人が出て行き、「こんなに朝は早いのか」と思いながらまた眠った。9時を過ぎた頃、再び目覚めると日は昇っており、外は暖かかった。
キッチンへ行き、持っていたパスタを食べた。誰もいなかった。キッチンまるで大型レストランのように広く、コンロとレンジ、食器類が並んでいた。が壊れているものも多かった。
食事を終えて外に出ると緑のラインが地平線まで続いており、
アリのような小ささの人々が何かに乗ってイチゴを取っているようだった。
それを横目に私は周辺を探索することにした。一番近い道路に出るまでに歩いて30分。そこには「WINES」と書かれた古びた小屋と銀色のタンクが並んでいた。
そこから西に歩くと今度は整頓された木々が見えてきた。りんご園だ。人はおらず、無数のリンゴが地面に落ちていた。
そんなりんご園を横断しながらさらに奥へと歩いて行った。林を超えるとまたリンゴ園があり、また誰もいなかった。
たくさんリンゴが落ちていた。
りんご園の中をさらに歩いていると作業着を着たおじさんがいた。オーナーには見えないので多分ここで働いている人なのかもしれない。
ふと目があった。なんとなく「何をしているの?」と質問すると
「落ちたリンゴを集めているのさ。これはいらないものだから。」
と言っていた。彼が言っていることが真実だったのかどうかはわからないが、私はなんとなく納得した。
「お前も持って行っていいぞ」
といって彼はリンゴを一つ投げた。
「ありがとう」
と言ってポケットに詰め込んだ。
「持って行きたかったら適当に持っていけよ」
そう言って彼はリンゴを拾っていた。
また
「ありがとう」
と言って私は3個ほど持ってそこから出て行った。
帰り道。もらったリンゴを服で拭き、かじって歩いた。
味はまぁ悪くない。ふと
「こんなの食べれるようになったんだ」
と思った。落ちてたリンゴを洗わず、拭いただけでかじるなんて日本ではできなかったから。
リンゴは私の昼食になった。
2時間ほど歩いてイチゴファームの入り口に着いた。そこからまた30分歩いてプレハブへ。同居人に仕事について色々聞いた。
朝5時から仕事は始まる。最初はトロリーの争奪戦から始まり、
日中は暑さとの戦い。トロリー次第で仕事のしやすさが変わる。
また、その日ごとに場所が変わるので遅れると、仕事に行けない可能性があること。今はイチゴも小さく実りも少ないので、ほとんど稼げないこと。
そして
数日前に政府によってガサ入れされたこと。
理由は不法滞在者の一掃。
それが意味することは、「ここで働いても2nd visaの申請はできない」ということ。
期待はしていなかったが、そこまで酷い場所なのだとは思わなかった。
地獄の始まり
イチゴファームについて3日目の朝、満天の星空が広がる中、寒さに震えながらトロリーを取りに歩いていた。
オーストラリアが日中での寒暖差が激しいのは半年以上住んでわかっていたが内陸はもっと大きいようで、朝は息が白くなるほど寒く、昼間は汗が出るほど暑い。
しっかりした防寒具のなかった私は友達がくれた真っ黄色のラルフローレンを泥とイチゴで赤く染めながら、朝5時から夕方5時までの12時間。働いた。
休憩は各自で行うが、トロリーの上で済ませる人もいる。トロリーはお祭りの出店を骨組みのみにし、車輪とイスを付けただけの乗り物。イチゴを入れるトレイが置けるだけのスペースしかないシンプルな作り。
働いてわかったことは葉っぱにトゲがあるため暑くても長袖、仕事中はイヤホンで音楽を聴いてOK。イチゴが生えているラインは両脇に人が入るので、取れるイチゴは早い者勝ち。もちろん形が悪いものはNG。
そんな中、私が初日にもらえた給料は$15。
時給で100円にも満たない。
さすがにやばいと思った。1週間働いても家賃と食費でマイナス。
次の日も、その次の日もまじめに頑張った。それでも、最高で$25を超えることはなかった。
私が遅いのもある。それ以上にイチゴがないのだ。
話を聞けば10〜12月頃であればダラダラやっても$1200、ざっくり週に10万円弱は稼げるとのことだった。
覚悟はしていたが心が折れそうだった。
3日目にして心が折れかけたが、とりあえず今はそれしかやることがなかった。
1日休みを挟んで次の日。
心が折れた
理由はアリに指を噛まれたこと。
いつも通りイチゴを取っていた時、突然、指先に痛みが走った。手を見ると1〜1.5cmほどの巨大アリが手袋の上から噛みついていた。
驚いて思わず見入ってしまったが、
次の瞬間、激痛が走り、飛び跳ねた。
本当に飛び跳ねた。
急いでゴム手袋を取り、もう片方の手袋を取って指の付け根に巻きつけた。
反射的に「もしかしたら毒!」と思ったから。
オーストラリアには毒を持つ生物が多い。もしクモの場合だったら死んでいた。日本で問題になった「セアカゴケグモ」という種類もオーストラリアが原産である。
急いでプレハブに戻り、水で洗いしたが痙攣と痛みがなかなか治らなかった。青白くなる指を見ながら
「どうしよう、病院。いや、保険切れてなかったっけ。このまま治らなかったら、もしかして死ぬ?」
とぐるぐると不安が渦巻いた。
痛みが治まる頃、仕事は終わりの時間を迎えた。イチゴだけ換金し、トロリーは知らん顔で畑に放置した。指の痛みと痙攣が治らないため、スーパーバイザーに報告をしたところ「アリなんかに毒はない。アリに噛まれたぐらいで 笑」という反応をされた。
心が折れた。やってらんない。
次の日から仕事に行かなくなった。どうせ稼げないのに。それからは毎日が暇だった。指は3日ほど痛みと痺れが残った。
カゴの中のニート
なんとなく、またイチゴファームの入り口まで歩いた。「WiNES」の小屋に行きたくなった。
30分をかけ、歩いた。
緊張しながら中に入ると、広い店内は古めかしい西洋風の客間という雰囲気の家具が並んでいた。
心臓が高鳴った気がした。あまり人が来ないのかホコリや蜘蛛の巣もかかっていたが、それもまた良い雰囲気を醸し出していた。
カウンターに近づくと奥からおばあさんが出てきて挨拶をしてくれた。優しそうな笑顔で。ワイナリーなので試飲できるかと聞いたら、普通に飲むことができるという。
赤白それぞれ4〜5種類ほどあり、それとは別にアイリッシュクリームが売っていた。値段も一杯$10もしなかった気がする。敷居は高くなさそうで安心した。
気さくに話しかけてくれる彼女の話を聞きながらワインを2杯ほど楽しんだ。何を言っているかはすべて理解できなかったが、やさしい英語で話しかけてくれたので若干は理解できた。
その日はほろ酔い気分でプレハブに戻った。
別の日、プレハブで仲良くなった仲間と暇を持て余して片道4時間をかけて近くのマクドナルドまで歩いた。暇だから。何せ仕事をサボってもやることはほとんど無い。仕事をしても$20前後しか稼げない。
マクドナルドに着くと、我々は久しぶりのハンバーガーとシェイクとWi-Fiを満喫した。日本ではほとんど行かないマクドナルドもなんとなく特別な味に感じた。
数時間居座り、我々は4時間かけてプレハブへ戻ることにした。
あと少しでファームの入り口につくという時、道沿いに立っていた一軒家をふと覗き込んだ。覗き込んだというよりはたまたまそちらを向いた程度だった。なにせ帰り道には数えられるほどしか家がないのだから。
覗き込んだ一軒家の庭では何かが焼ける音と陽気な笑い声が響いていた。家を通り過ぎようとした時、一人のおじさんに話しかけてきた。
「お前ら。一緒に飲んでいかないか」と。
戸惑ったものの、「こんな機会はなかなかない」と思い参加することにした。何より暇だし。
鍵を外し庭の中に入れてもらうと、円状に並んだ椅子へ案内された。
おじさん、おばさんが6人ほど座っており聞くと皆、親戚とのこと。
正直、訛りがキツく、オランダ人だというおばさん以外、何を言っているかはわからないが、
ビールは美味しかった。
1時間ほど滞在したが、他の二人は全く喋らず気まずそうだったので帰ることにした。とても気さくなおじ様たちで「ここにきたのも悪くなかったかな」と思った。
渡りに船、イチゴにカリフラワー
スタンソープに来て1週間が過ぎた頃、私のvisaの日数も5ヶ月を切り、本格的に後がなくなってきた。とはいえ、東海岸で仕事を探していた私は苦戦をしていた。ネット情報は
「イチゴファームで荒稼ぎ!」のような胡散臭いものばかりで信用性が低かった。何より今もイチゴファームだし。
そんな中、突然友達からLINEが送られてきた。
「あのさ、今ってファームジョブ探してへん?」
と。びっくりする気持ちと藁にもすがる思いで「探してる!!」と送った。
すぐに返信が来た。
「せやったらウチんとこ空きあるんけどくる?パースやけど」
パースはオーストラリアの間反対、西海岸にある一番大きな都市。詳しく聞いて見ると、そこから更に南行ったマンジマップという町のカリフラワーファームで働いているらしい。
マンジマップまではスタンソープから高速バスでブリスベンまで戻り、飛行機でブリスベン→メルボルン→パースへ乗り継ぐ。そこからさらにバスで5時間をかけてやっと行ける。
お金はギリギリ。だがなんとか行ける。
私は「行くから話をつけておいて欲しい」とメールを送り、全てのチケットを手配した。
残りの数日はあっという間で、気づけばファームを出る日になっていた。荷物とチケット、給与明細を握りしめ、時間よりも早くプレハブを出た。バスの到着時間はあくまで目安。ここはオーストラリア。
それにせっかくだからワインを買って帰りたかった。ガラガラ騒音を立てながら普段の1.5倍時間を掛け、ファームの入り口へと向かった。
ワイナリーは今日も静かに開いていて、人はいなかった。カウンターまで行くとおばあさんが出てきて軽く話をした。
ここから移動してパースに行くこと。イチゴファームが酷かったこと。
ここが好きだったこと。
おばあさんは「最後だから試飲していきなさい」といつも通りメニューを差し出してくれた。
安いのを頼もうとすると、「私のおすすめはこれよ」と一杯$25するワインを指差した。最後だしと思い、それを頼んだ。バスの時間まではあと2時間ある。ゆっくり飲みながらあれこれ話し、予算のことなどを話し、ワインを購入した。
会計は購入したワインの代金だけ。飲んだ分は入ってなかった。
「これをあげる」
とアイリッシュクリームまでくれた。何度も、何度も感謝を述べて店を出た。
バスに乗り込み、席に腰掛け、イチゴファームを眺め、流れゆく山々を横目に少し眠った。
幸せな気持ちとほろ酔いで。
私なんかにサポートする意味があるのかは不明ですが、 してくれたらあなたの脳内で土下座します。 焼きじゃない方の。