資本主義的メディアはその役割を果たせているか

世界史においてメディアというものは大きな意味を持ちそれは同時に大きな力を現してきた。

かつてイギリスのエドワード・ブルワー=リットンが「ペンは剣よりも強し」と言ったことは有名な話である。

これは言論の自由の重要性と言論が大衆に与える影響の強さを物語っている。言論は常に権力を監視することでその権力の不正や腐敗を抑制し権力の過ちを正すという使命を背負っている。

しかしこれは時代と共に変化していった。何事においても金が必要という現代社会は理想の実現へと奔走する者たちにとっては大変厳しいものだろう。

メディアは資本主義社会にしっかりと染まっていった。権力の監視をしていたメディアが資本主義社会の中で営利的になり影響力をそのままに維持したまま自ら背負っている使命を忘れていった。そして長いものに巻かれ権力と癒着するようなメディアが増えてきた。

それらのメディアはプロパガンダを放送し権力の過ちを正せず、社会を危険な方向へと導いていった。権力はメディアを重視しこれを握ることで大衆をその影響力を持って操作しメディア側も体制側に回ることでこれを無視した。

メディアは初心を忘れて非倫理的なものへとその姿を変えていったのだ。メディアは資本主義社会の中で商品化されたのだ。もはやそこに理想も理念もあったものではない。全てが欲求のもとに成立している。

資本主義社会は現在も現役で活動を続けている。多様化も進む中でメディアはその在り方について転換期を迎えていると私は考える。日本では朝日新聞がネット等で批判されこれまで主流だったテレビや新聞という情報入手手段がネットへと若者を中心にシフトしている。

これにはネットメディアの乱立による娯楽の多様化やユーザーが得たい情報だけを取り上げてくれる、ネットメディアの利便性が理由として考えられるがこの状況に対してテレビや新聞はあまり危機感を抱いているようには思えない。これが私には不思議でならない。

資本主義的社会において形だけの権力監視を行い、時にFAKENEWSなどと呼ばれるようなものを報道しているにも関わらずなぜ焦りを見せないのか。これには日本の中途半端な資本主義とグローバリゼーションの中での多様性がこれを生み出していると私は考えるのだ。

営利的になった資本主義的メディアにおいて本当のこと(事実)はどうでもいい。売上こそが命なのだ。売上がなければ社はつぶれ言論活動はおろか所属する社員の人生の安定も損なわれる。

この営利的な考えの上に現在のメディアがあることを理解して欲しい。彼らにとっては事実より売り上げなのだ。さらに権力批判ということだが、これははっきり言って適当でいい。

なぜなら権力を嫌う消費者にとって批判の内容はどうでもいいのだ。ただ権力のやること全てを逐一批判しそれっぽい理由をつけてくれればいいのだ。そうすれば彼らの欲求は一定分消費される。これでいいのだ。

メディアは自分たちを支持してくれる消費者が求めることをして契約の継続を実現するのだ。これにより彼らはその職業人生を保っている。今これがネットを中心に一定の批判の中にある。資本主義的なメディアにおいてFAKENEWSは当然ともいえることなのだ。


しかしこれまでそれが非難されなかったのはなぜか。これは報道されなかったから、多くの大衆の目に入らなかったからというのがあげられる。ネットメディアの発達というのは最近のことでこのネットメディアという新しい情報発信ツールの発達によって主流メディアを監視するという新しい構図が組みあがったのだ。

これによってメディアの腐敗と言うものが明るみになっていった。元は権力を監視しその腐敗や不正を是正するための組織だったメディアもまた不正と腐敗の中にあったのだ。

報道をしないという形での事実の隠蔽、嘘の報道。今これを監視する形での新しいメディアがネットだ。またネットはたくさんの利用者がいてメディアとしての多様性があるから相互監視の構造が出来上がりこの腐敗・退廃の連鎖からようやく解き放たれる。

今、メディアは資本主義社会の中で多様な形で進化を遂げ旧体制からの脱却を図ることになる。ネットメディアの問題点として情報が偏って耳に入るということをいう人がいるが、これまでのBPOの定める規定の中でやってきた大手からのみ情報を得ていた旧時代こそ偏りを生んでいるのではないだろうか。詭弁もほどほどに時代の進化と流れに逆らわず次のポジションを考えたほうがいい。


日本のメディアは資本主義社会の中で安定を保ってきた。これは日本の放送業界というのは規制によって保護されているからである。これによって競争が起きず向上心や進化への試みをしなくなったのだ。

ネットメディアが出始めようやくネットに競争心を持ち、動き始めたがまだ微々たるものだ。なんなら彼らのやっているネットメディアでの作品はテレビで見られるものに少し手を加えただけの模倣品だ。これではスタイルの差別化が図れない。私はすべて放送業界を自由化すべきだと考えるのだ。

これまでの一定の保護の中での放送社会から競争のある放送社会に変化をするべきだ。テレビのチャンネルの番号を自分で決められるものにしてもいいのではないか。

1がNHKではなくHIKAKINチャンネルにしてもいいのではないか。チャンネルの番号決定権も消費者が持つべきだ。見たくもないチャンネルが並んでいるリモコンなんて家にある意味がない。チャンネル決定権の自由化、閉鎖されたテレビからどこまでの自由な利用者の個性あふれるリモコンへ。

国営放送を見てもないのに受信料を収めるということに疑問を持ち始めた人が増え始めている中、この各個人のオリジナルリモコンを作成することで再び低迷気味のテレビ業界は復活の兆しを見られるのではないだろうか。

これを許さない規制は撤廃されるべきであろう。国が国民から税金を収集しそれを国民に還元しないというのはおかしな話である。「危険だ。危険だ。」と言ってこの流れを食い止めることよりもこの進化を受け入れ前進すべきであろう。

既得権益に群がる輩は諸行無常という言葉を知らないらしい。かくも愚かではないか。情報の偏りが危険だというがネットはそういうものではないか。自分の検索した情報を見せてくれる。

さらにそれに関連する情報も提示してくれる。なんならこちらの好みを読み取りおすすめまで提示してくれる。こんな目に見えない気の利く執事のようなものがいて偏らないわけがない。だからこそ国は偏らないような施策を練るべきであろう。逃げて先延ばしにするのではなく先を見通し考えられるリスクに備えるべきだ。そうでなくては税金を納めている意味がない。


真実を放送することが求められる。これはメディアにおいて指名だった。ピューリツァーはこれを意識しアメリカの新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハーストはこれを意識せず営利的だった。

正しいことは放送するのではない。情報を受け取った人たちが考え導き出すのではないか。

真実はかの少年名探偵さんのように簡単に見つけられはしない。

我々が思考し導くのだ。ゆえに真実を報道しているというメディアにおいては余計な見解や予測は報道すべきではない。これをした瞬間から報道機関の指向がその情報の中に内在することになるからだ。

食事に例えるなら口移しで食事をするようなものだ。新鮮な情報は何も調理されてない状態だ。ゆえにそのままでいい。情報を受け取る者が自分で調理する。

これが国民の中で成熟していくことで国はよき方向へ発展するのではないだろうか。自主独立した思考で事象を捉えることが重要だ。

ゆえに現代のメディアに求めることは情報を調理することをやめることだ。さらには非営利的な精神に立ち返ることも必要だろう。

流行りの情報や国民の注目の高そうな情報ばかりを報道するのではなく、より多くの日本の問題を映し出し様々な意味で警鐘を鳴らすことが需要だろう。十分に金があるのだろうからより多くの情報を収集しこの国の問題点を照らすことに使うべきだ。

現状のメディアに求めることはこれだが、これもいつかはネットメディアと既存の報道社会からの自由化を持って変化を迎えるまでの話だ。各個人の見たいものが好きな媒体で見れるようになり、新しいメディアの時代が進化を牽引していくと私は一定の信頼を置いている。

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