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文脈からの距離をとると、世界が変わる

年末年始が明けて、数週間が経とうとしている。ようやく連休にどっぷりつかっていた身体が、稼働モードに切り替わってきた。

去年はありがたいことに、12月24日から年末年始休暇をいただき、2週間弱の余暇を得た。その間は伊豆に旅行に行ったり、妻の実家のある茨城に帰省したりと、小旅行も楽しむことができた。

伊豆の温泉につかりながら、ふと休暇に入る前の戦場のような日々を振り返る。

12月は、年始にリリースする企画準備のため、毎日、息をつく間も無いほど、大量のタスクに溺れていた。本当に間に合うのかこれ。スケジュールの重圧に押し潰されそうになりながら、走りきった。毎日、悲壮感しかなかった。

しかし、いざその場から距離を置いてみると、大変だっけど、大したことでもなかったように思えてくる。本当に不思議なことなのだが・・。

日常から距離をとると世界が違ってみえる

まさに、こういう現象が起きていたように思う。

日常の文脈のなかに埋め込まれているときは、視野狭窄に陥って、目の前のことしか見えない。でも、いざ違う文脈に身を置くことで、普段の自分を俯瞰できることがある。

年末に読んだ「旅の効用」という本にこんなことが書かれていた。

不機嫌という病を治すにはまず、自分の安全領域から外に飛び出すことだ。
そうすれば、すべてをコントロールしなくても日々がうまく運んでいくと気づくこともある。
いったん異文化の中に身を置けば、足が地に着かなくなっても 「すべてうまく行くだろう」と信じることができる。

旅に出て日常から飛び出す。いつもと全く異なる環境で、違いを感じる。

そうすることで、日常を注意深く省みることができる。普段何もしてなかったことに不意に気づくこともあるし、逆にずっと悩んでいたことが大したことないように思えてきたりする。

インドに行ったら人生が変わった、というような話をすると、みんなに馬鹿にされそうだ。でも本当に人生が変わるほどのショックがあってもおかしくないのだ。価値観も文化も生活レベルも異なる環境に長期的に身をおけば、それこそ世界が違って見えてくる。日本でクヨクヨしてたことが馬鹿馬鹿しく思えてくるのだ。


学生時代に訪問販売の仕事をしていたことがある。営業成績はそれなりだったのだが、自分よりもはるかに優秀な営業マンが何人もいた。日本でトップセールスを獲得するような化け物たち。頑張っても彼らに敵う気はせず、行き詰まりを感じていたときに、ふと東南アジアを3週間ほどバックパッカーに出かけた。

旅の道中でさまざまな人に出会った。

サーファー、世界一周中の旅人、ゲストハウスを運営している人、怪しげなブローカー・・・。自分の視界が開かれて、まったくの別世界に移ったような感覚があったことをよく覚えている。

日本への帰りの飛行機の機内。

別にいまやっている仕事に固執する必要はないか。そう思いたち、そのまま営業の仕事は辞めてしまった。この決断が、結果的にいまの仕事につながるキッカケになっている。

「時間の長さ」×「日常からの距離」を最大化する

旅に出たときの時間の長さと変化幅が大きいほど、より色々なコトに気付けるのではないかと思う。

やっぱり三連休とかを家で過ごしていても、日常の文脈から抜け出すことはできない。でも1ヶ月あったら、じっくりと忙しき日々のことを俯瞰できそうな気がする。

逆にたった3日でも、超非日常的な3日間だったら、脳内は切り替わりそうだ。

最強なのは、1ヶ月以上、非日常空間に身をひたすこと。行ったこともない国への旅行、たとえばアマゾンの奥地とかマダガスカル島とか。そういった日常からかけ離れたところで過ごせば過ごすほど、見えてくる世界も変わってくるはずである。

仕事もあるからなかなか難しそうだけど、転職とかそういう節目のタイミングなら、実現できるかも。

いずれにしても。日常の文脈に埋没しすぎないように、適度に距離をとる時間は持ち続けていたい。



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