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永田淳さん第4歌集『光の鱗』を読む

短歌結社・塔短歌会の選者である永田淳さんの、選者となった以降の445首を収めた第4歌集。帯にはタイトルにもなった代表歌が。

雲の影ひとつを東に過ぎらしめ琵琶湖はただに光の鱗

永田淳『光の鱗』

琵琶湖かあ。うちの旦那さんは関西出身、兄弟が滋賀県住まいなので琵琶湖はとても近しい存在のよう。その話から聞く琵琶湖はとにかく大きく悠大なイメージがあります。表紙写真は永田さん撮影だそう。

気になる7首評

剃り方を教わりしことなし剃り方を教えしことあり十五の櫂に

p. 17

歌集は2015年から2021年までの歌を収めていて、それは同時に父である永田さんから4人のお子さんが巣立っていく時期にも重なっている。歌にも自然と家族が登場する。

この歌には熟成されたお酒のように濃密な時間が込められている。自分の父と、自分と、息子がいて、髭を剃るほど息子が大人になってから初めて詠める。私には子どもがいないので、息子を持った父ならではの歌だなあと羨ましくなった。母と娘とも違う少しドライな空気がある。

八月の夜を大きく穿ちつつはたりはたりと夕顔咲きぬ

p. 32

夕顔はとても儚くて弱い花だと思っていた。だから「大きく穿ちつつ」咲く姿にびっくりした。「はたりはたり」と花びらがダイナミックにめくれていくさまは、夜に肌白さを見せていくようで艶めかしい。そして格好いい。何だろう、私は太地喜和子を連想した。

水張田のおもてわずかにめくりつつ濃尾平野に黒南風は吹く

p. 52

先ほどの「はたりはたり」もそうだけれど、タイトルにもなった「光の鱗」の感覚に引っ張られて気になるのかもしれない。風が水田をめくりそうに吹くというのが面白い。ページがぴらぴらしている本のよう。

でも全部をめくりきることはなく、水田は黒雲の下でもどっかりと大地にあって揺るぎない。

前線に最初に着きしが殺さるる自転車道までのぼりくる葛

p. 66

「前線」と言った途端に人の存在を感じて、その後に続く「殺さるる」が重く響く。戦争のようなところでは最前線で突っ込んでいった人たちはほとんど死んでしまうだろう。その覚悟もあっての前線行きだと思う。

ただ最後の「葛」でちょっと救われる気がした。「葛」にはそこまでの意思はない。植物の、どちらかといえば生きるために突っ込んでいく姿に思えて「前線」の印象が少し変わる。確かに先端は殺されるかもしれないけれど、生命はそこで終わっていない。

パブに歌稿展げておれば店員にmathしてるのかと訊ねられたり

p. 112

これはロンドンへ行った際に詠まれた歌。パブに行っても歌稿を展げている永田さんが永田さんらしい。あちらの店員さんからすると、mathのように見えるのか。確かに何文字か記して止まって悩んだり、字数を数えたり線を引いたりしていたらそう見えるのかもしれない。海外の話は予想を超えてきて面白い。

太陽を離りゆくとき彗星の表面を吹く嵐おもえり

p. 123

これだけで読むと天体の話だけれど、子に関する連作の中で詠まれていて、なるほどと思う。彗星の尾は、大きな楕円軌道上で最も太陽に接近したときに一番長くなる。これから強い力で太陽から離れなければいけないときの現象でもある。子どもを持っている人だともっと共感できるのかもしれない。

その白き脚の次々砕かるるしなやかな須臾降り継ぐ雨の

p. 164

雨に関する連作の1首。最後の「雨の」で種明かしをされるまで「この美しいものは何だろう」と言葉に惹かれ続ける歌。「白き脚」が砕かれるのだからよく考えると壮絶なのだけれど、それより綺麗な情景に思えるのはなんでだろう。

家族を詠む歌

時期として家族が多く詠まれている歌集。お子さんからすると、ここで残されている親から見た情景は何十年後かにとても貴重なものになると思う。

自分の親があの時期にどんな気持ちで接していたのかが生々しく分かる。日記のように書き綴った文章より、スパッと切り取った短歌のほうが鋭く刺さる気がする。やっぱり短歌はその時その瞬間がパックされる媒体なのだなと思う。

本のカバーもめくってみると

『光の鱗』は本としても装丁が凝っている。銀色に箔押しされたタイトルは本当に湖面できらめいている光のようだし、帯の銀のストライプも凸凹の手触りが気持ちいい。見返しは色が穏やかなベージュで、布地を思わせるようなエンボス調の紙が使われている。ずっと触っていたい本。

あと、書籍を持っている人はぜひ本のカバーをめくってほしい。


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