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広報的なテキストと報道的なテキストは、立ち位置が違う

自分の仕事を振り返ると、ここが岐路だったのだろうなと思う。岐路というか、出発して右に行くか左に行くかだから、初めから分かれていたといえるかもしれない。それほど根本的に違うのが「広報的」な視点と「報道的」な視点だ。

私は「広報的」な視点からテキストに触れるようになった。具体的に言うと最初のキャリアが新聞社の広告営業職だったので、まずお客様がお金を支払ってくれることにOKをもらい、最終的に原稿内容にもOKをもらうのが当たり前だと覚えた。その2つをクリアしないと仕事にならない。

フリーランスでライター仕事を始めた後も、自分の立ち位置は変わっていない。いや、変えようにも変えられないのだと後から分かってきた。

同期でも記者として働き始めた人たちは「報道的」な視点からテキストに触れている。事件・事故担当になれば現場へ真っ先に向かい、動揺している当事者の気持ちをこじ開けて話を聞くこともある。政治担当になれば首長や議員の人たちが「言いたくないこと」をあえて文字にすることもある。

相手から2回もOKをもらうなんて手順は考えられないだろう。

でも「広報的」なところからスタートした私は、了解がないテキストは扱うのに緊張する。出したら誰かを傷つけないか。お客様に不利になることはないか。できればこのテキストでスポンサーもそのユーザーも自分もメリットを得られるようにしたい。テキストの最上の着地点はどこだろう。いつもそんなことを考えてテキストを作っている。

斬り込む武器を持っていたとしても、それはジャーナリスティックな使い方をするのではない。「視点を変えて面白くする切り口」とか「今まで気づかなかったフィールドの開拓」に使おうとする。やっぱり根が「広報的」なのだ。

一時期は「報道的」なテキストを書けないか悩んだ。でも書けない原因を突き詰めていくとスタートから違っていた。もう路線変更は難しい。どのみち逆も然りだ。割り切って「広報的」なテキストに突き進むしかない。



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