福間良明『「勤労青年」の教養文化史』(岩波新書)を読む

5冊読んでからではなく1冊読み終えたときに書いてみよう、ということで早速noteに記録する。

今回は福間良明『「勤労青年」の教養文化史』(岩波新書)

「教養」という言葉に弱い。威張れるほどの知識がほとんどないことを知っている上に、どこから手をつけて良いのか、何を以て教養なのかが未だに分かっていない。

それでも今より「教養」が重要視されていた昭和30年代、40年代の話はよく聞く。自分の親世代はおそらく私よりも本を読み、知を蓄えている。この違いは何なのか、世代なのか社会なのか答えを知りたくて買った。

教養主義を下支えしていたのは格差や階級で劣位にあった人々の「人格陶冶」や「真理の追求」への熱意だったという。社会と大衆の変化を時系列で追い、教養と絡めていく解説は面白かった。

本書によると、昭和20年代から30年代にかけて、農村部の青年学級から定時制高校、定時制高校から人生雑誌へと「教養」を求める舞台が移る。そして一時下火になり、昭和50年代に歴史雑誌ブームを迎えて「断片的な知」が消費されるようになり、2000年代には教養自体が顧みられなくなってしまった。

進学率や大学のあり方が変化するにつれて、若者の間の熱意が薄れてくる。教養主義への無関心も進んでいく。2000年以降は実利主義や成果主義が幅を利かせるようになり、以後のことは自分もよく知っている。

筆者は昭和50年代の歴史ブームも教養主義の延長上の現象として捉えていて、新鮮だった。歴史上の人物から生き方や人生を学ぶ手法は今もあるが、当時は今より盛り上がっていたらしい。

そしてそのブームを支えていたのは、壮年期に入ったかつての若者、高度経済成長期に働きながら学んでいた世代、格差に負けないために教養を身につけたかった勤労青年世代だったという話が面白い。

あとがきによると、前著を出版した後、筆者は実際に定時制高校や人生雑誌で教養を学んだ人たちに会っている。年齢はもう70代以上、それでも話していると彼らの社会科学関連の読書量の多さ、知識の深さを実感できたという。先日読んだ『毎日あほうだんす』の紀光さんも、そのうちの一人だったのかもしれない。

長くあったように見える教養を重視する風潮は、実はある特定の年齢層の熱意の再燃だったと思うと、かえってそれほどまでの教養への渇望がうらやましくも思う。人生をかけなければと考えるからこそ、本気で本を読んだし消化して血肉にしようとした。

どこか義務感で「勉強しなきゃな」と思う層とはハングリーさが違う。やっぱりあの世代は凄い。

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5冊読んだら感想をまとめようという一人企画も実践中。マガジンにまとめています。


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