見出し画像

ある歯科医の秘密

 私は夜になると熊になるのだが、それは大したことではない。人は誰しも秘密を持っているものだし、それが私の場合は実は熊であるということだけだ。
 熊にもいろいろいるが、私はヒグマだ。医者にはわりとヒグマ率が高い。コンビニ店員なんかにはツキノワの連中が多い。あとクロネコヤマトとか。昼は黒猫で夜は熊とか冗談かね?と私たちヒグマたちからすると格好のネタになっている。海外の動静についてはちょっとわからない。
 ともあれ、だ。
 ふとしたことで、今日来た患者の秘密を知ってしまった。彼女は20代後半のヨガインストラクターで、無駄な肉は一切なく、おそらく肩まであるボブの毛先5cmを金色に染め、一つにまとめていた。

 受付の女性が彼女を診察椅子に誘導し、彼女はそこに優雅に座った。動きにまで無駄がなかった。ヨガインストラクターとのことだったけれど、どちらかというとバレリーナのような身のこなしだった。
「右下の奥歯の歯肉が少し腫れていて疼くんです」と彼女は言った。「痛みはそれほどありません。ただ歯磨きをすると血が少し出てきます」
 彼女の右下の奥歯は銀の詰め物がはめられていた。全体的に歯垢はそれほどついておらず、歯磨きは問題がないようだった。問題は、奥歯の詰め物を外した時だった。その奥に小さな小さな何かが住んでいた。
「武藤さん、すいません。ちょっとうがいをしましょうか」
 見間違いかと思った私は、彼女に促した。少し怪訝な顔をしたが、彼女は口に水を含んで2回うがいをした。口から出る水は特に何も混ざってはいないようだった。唾液が水に混ざって少しだけ糸を引き、ぷっと吐き出された。

 ひと仕事終えたかのように、彼女は診察椅子に横たわった。唇の端に残った水滴をぺろりと舐め取るのが視界の端で見えた。もう一度、彼女の口のなか、右下の奥歯を確かめる。
 まず虫歯を疑ったが、明らかにそれらは違った。言うなれば、聖なるものだった。歯を侵すような存在とは思えなかった。私は器具をいったん置き、診察室の壁に飾ってあるクリムトの複写をふと見やった。もちろん、そこに答えはなかった。

「どうです、いま痛みはありますか」小さな何かを少しだけ突きながら私は尋ねた。「感覚はありますか」
「痛くはありません」彼女は答えた。「ただ何というか、ちょっと疼く感じはあります」
「なるほど」と私は言った。「なるほど」
「何か問題がありましたか? 抜歯とかが必要なほど悪いんでしょうか」
 少しだけ不安を眉の間に漂わせながら彼女は聞いた。唇はほどよく厚く、形もよかった。きれいな人なんだな、と私は思った。
「いや、大した問題ではないと思います。ただもうちょっとだけ様子を見させてください。顎は疲れていませんか?」
 大丈夫です、そう言って彼女は目をつぶった。マスカラをしたまつげがかすかに震えている。「それじゃ、口を大きく開けてください」

 結局のところ、私は彼女の右下の奥歯を軽く水圧で洗浄して、その小さな何かをそのままにした。私にできることなど何もないような気がした。触れてはならないような、超えてはならないような何か。そんなものがそこには息づいていた。
 「ちょっと様子を見ながらまた腫れたら来ます」。そう言って、彼女はすっきりしたようなそうでないような曖昧な表情で帰って行った。私自身、まるですっきりしていなかった。見知ったはずのクリニックの自動ドアが、やけにゆっくりと閉まった気がした。

 その日の午後は、あまり予約も入っておらず初診の患者も訪れなかった。私はトイレの鏡に向き合って、口を大きく開けて見た。歯科医であるから、当然虫歯はない。歯を1本ずつ、ひどく丁寧に、ゆっくり時間をかけて磨いた賜物だった。患者としても虫歯だらけの歯科医などお断りだろう。私の歯にはもちろん問題はなかった。
 時計は7時を回り、夜が近づいてきていた。私は室内の電気を落とす。クリニックの2階が私の家だった。私はうっとりと、冷蔵庫に冷えているビールを思い出した。苦味が強いIPAだ。そのせいで、ゴクリと喉が鳴った。熊だからと言って、いつもハチミツや鮭などを食べているというわけではもちろんない。それはまるで、海外の人が日本に侍ばかりいると思い込むのと同じことだ。私たち熊はビールも飲むし、ジーマーミ豆腐だって食べる。卵はアレルギーだから食べることはできない。人だろうが熊だろうが、そのあたりは変わらないのだ。
 IPAビールの缶を開けながら、私はヨガインストラクターの右下の奥歯を思い出す。強い苦味が喉を通過する。そのとき、クリニックの電話が鳴った。が、少し迷った末に私は対応しなかった。大きなため息をつきながらゆっくりとソファに腰を下ろし、録画していたBSのマタギのドキュメンタリーを観ることにした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?