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目の前のランナー

 どうやら交通事故にあったらしい。
 らしい、というのは記憶がないからだ。

 でもその時のことは断片的に覚えている。あ、朝薬を飲み忘れたな飲まなきゃ、ということや、自転車の空気抜けてたな入れなきゃ、と思ったことを覚えている。非日常的な衝撃の瞬間には、人はずいぶん実際的なことを考えるものらしい。

 不幸中の幸いとはまさにこのことで、事故による怪我の程度はそれほど重くはなく、肘付近の骨にヒビが入ったのと顔の右側、こめかみから頬にかけて大きな擦り傷が付いたことくらいだった。仕事からの帰り道、横断歩道が青になるのをスマホを見ながら漫然と待っていた。視界の端で周囲の人が動きはじめたので信号が青になったと思ったら、動き出したのは赤信号を渡った人たちのようだった。釣られた私は見事に左折してくる花屋の軽トラックに巻き込まれた。後から聞いたところによると、わりと大きくはねられたようだった。大きな衝撃が身体に加わったことは覚えているけれど、痛み自体はその時は感じなかった。

 病室での日々は単調さそのものだった。朝早くに起きて朝食を食べ、何らかの検査をされ、主治医や看護師に術後の経過を観察され、昼食を食べ、読書をしたりNetflixを見ているうちに眠くなり昼寝をし、夕方にまた起こされ、日常生活だったら早すぎる夕飯を食べる。食事はどれも言うまでもなくバランスが取れていた。入院したら痩せる人がほとんどだと聞くけれど、食って寝てが続いていて、むしろ太るんじゃないかと心配なほどだった。もちろん、かかっている科やフロア、病棟などによって違いはあるだろう。私がいた病室の人たちはそれぞれ怪我の程度の差こそあれ、比較的元気な人たちが多かった。

 入院は長くはかからなかった。むしろ動いた方がいいということで追い出されたような印象すら受けた。少し遠くに住む実家の親もお見舞いに来ようとしていたけれど、その前に退院してしまったほどだった。

 私は、退院の手続きをするために受付の前にあるベンチに座っていた。するとふと、病室で寝ているときによく見た夢のことを思い出した。それは、目の前を走るランナーをずっと追い抜けないという夢だった。私は健康を考えて日常的にジョギングをするようなタイプではないので、なぜそのような夢を見たのかはよくわからなかった。

 いくら速く走っても、いくら歯を食いしばって懸命に走っても、そのランナーはずっと目の前を淡々と走っていた。足音も息づかいも聞こえなかった。夢の中で私は全力疾走してその背中を追った。そのおかげでほんの少しだけその背中が近づき大きく見えることもあった。けれど、その差は永遠に、決定的に縮まらないように思えた。私は次第に息が上がって来て、とても走れるような状態ではなくなった。私は地面に倒れ込み、土にまみれながらぜえぜえと呼吸をしていた。それでも、目の前のランナーはそこにいた。倒れ込んだ私の前を走り続けていたのだ。端から見るとおかしな光景だったに違いない。目の前のランナーは前方に進んでないにも関わらず、倒れ込んだ私の前であくまで走っていた。

 会計で名前を呼ばれ、私はふと我に返った。周囲にいる病人やお見舞いの人たちの会話や囁く声がいやに大きく聞こえた。

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