「自由」や「幸福」なんて、やめちまえ
インフルエンサーにインフルエンスされていても、世界は幸福にも自由にも傾かない
「一億総活躍社会」が近づいているらしい。うそつけ、なんて十三の雑踏に控えめに吐き出す。「個の時代」とか「信用の時代」とかなんとかうそぶいて、分断は余計に広まっているようにすら思える。
誰も彼もが「ブログだ!」「コミュニティづくりだ!」と声高らかに、コミュニティとは名ばかりのサークルをつくっている。
猫も杓子も「正解はないよ」だなんて言って、みんな大して考えもせずにインフルエンスされて自分の道を決めて、それを善しとして人々を扇動するような内容ばかりインターネットに海に投げている。
地獄だな、と思う。何が地獄かって、当人たちはそれこそがユートピアを築くために最良の行為であるという強い信念(のようなもの)を持って営々と生きているからだ。
こんな世界にもはや希望はない。そんな世界が加速していく中に、希望を見出すことはぼくの眼力では到底できなそうだ。来世を待とうかな。でもぼくは現世の人間だし、現世のみんなが好きだから。ちくしょう。現世でがんばるか。
こうして、ぼくは毎日何周も思考した挙句、陳腐な風潮へのアンチテーゼとして働き、文章へ吐き出すことを選択する。
もちろん、こうして文章を書くこともエゴイズムに過ぎない。重要なことは、それがエゴイズムであることを理解した上で、公平な行動を取ることだ。公平というのは、誰にも彼にも分け隔てなくということではない。「世界から与えられた問いに対して誠実に向き合い答えていくこと」こそが、真の意味で公平さを希求する行為だと考えいてる。
いつでも重要なことは想像力である、とぼくは捉えている。人間に与えられた知性という道具は、それを用いて異なる世界を想像することで、誰かと共存して社会を創り上げることに寄与する。犬にも、猿にもできない。ぼくらにだけ与えられた、お中元みたいなものだ。ラッキー。
残念ながら、想像力があるからぼくたちは悩む。あの子に嫌われているかもしれないとか、上司とうまく行かないとか、想像力がなければ悩むことすらない。怒られて反省した素ぶりを見せる子犬は、45秒後には全部忘れて庭を駆け回る。明確な違い、想像力。
世界の分断や残酷さは想像力にある意味起因するだろう。想像するからこそ、ぼくたちは「日本・外国」「男性・女性」「障害者・健常者」みたいなカテゴリーをつくって振り分けることができた。それは認知コストを下げたし、世界の成長に重要な役割を果たした。一方で、避けがたい分断を生んだし、飛躍が許されるのであれば戦争を生んだ。
しかし、想像力は武器にもなり得る。理想を抱き、価値判断基準を大切にしながら現実的に生き抜くための最たる武器だ。想像力があるからこそ、ぼくたちは人の痛みに気づき、共感し、支えあることができる。
傷の舐め合いに終わらず、建設的に物事を進めていく知性を「想像力」という形で得た。それを助けるテクノロジーを発展させてきた。実は、世界にはもう準備が整っているのではないだろうか?
あとは、一人ひとりが準備するだけだ。分かりあい・分かち合える世界を希求する準備を。たとえ難しそうであっても、一人ひとりの信じる力の大きさが重要だ。そういう勇気を、ぼくたちは持って生まれて来た。
「幸福」も「自由」も目指してはいけない。目指した瞬間、それは形を伴い途端に崩れてしまう。ぼくらは想像し合うことができる。想像しあえれば、「幸福」も「自由」も付いてくる。だから、まずは想像するところから始めよう。繰り返すが、そういう準備はできている。勇気を持っている。希望は淡く存在している。
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