シン・日曜美術館『深読み 夏目漱石の坊っちゃん』⑮
前回はコチラ
1989年5月某日(日曜)午後
藪蔦屋 りうていの間
坊っちゃんが宿屋の下女に渡した「五円札」の謎は解けたけど…
坊っちゃんが下女の清さんから受け取った「壱円札」はどうなんだろう…
あっちにも何かが隠されているような気がする…
そうだな。壱円札の方も見てみよう。
えーと…
坊っちゃんが清から壱円札3枚を受け取った時の年齢は、旧制中学に通っていた頃、つまり12歳から16歳の間だから…
明治二十年前後の時代に流通していた壱円札は…
あった。
「大黒天」の壱円札と、「神功皇后」の壱円札と、「武内宿禰」の壱円札だ。
また三種類?
しかも「大黒天」と「神功皇后」は五円札とモロ被りじゃないか。
印刷に使われたインクが硫黄などに反応して変色してしまうので、温泉地で忌み嫌われた「ブルーの大黒天」問題も一緒だ。
打開策として五円札は「菅原道真」バージョンが、壱円札は「武内宿禰」バージョンが追加された。
まず「大黒様」から考えてみようか。
これも五円札同様「変色ネタ」だな。
坊っちゃんは下女の清からもらった壱円札を「ぼっちゃん便所」の中に落としてしまった。
何とか清が釣り上げるが、壱円札は糞尿で変色してしまい、洗っても洗っても元に戻らなかった。
硫黄と糞尿はどちらも臭い。
それにしても清さんは、よくそのまま坊っちゃんに渡したよね。
最初から両替してあげればよかったのに。
「ウンがつく」の縁起担ぎだろう。
それでなくても大黒は金運の神様なのだから。
なるほどね。
あと、「大黒」って名前も関係するかもしれない。
「大黒」という名前が? なぜだ?
日本語の「糞をする」は「大をこく」とも言うんだ。
だから「ダイコク」は「クソする」とも聞こえる。
は?
ほら、僕たち日本人は、屁をする時に「屁をこく」と言うだろ?
あの「こく」だよ。
なるほど。「大黒天」はトイレの神様「うんこする神」か。
「むしゃむしゃ(武者武者)」の駄洒落を言うくらいの夏目漱石だ、これも十分に考えられるな。
では次は「神功皇后(じんぐうこうごう)」だ。
八幡様の母である神功皇后は、清和源氏の「守護神・聖母」のような存在で、「釣りの名人」だった。
清さんが坊っちゃんの「守護神・聖母」のような存在で、壱円札を巧みに「釣り上げる」ことが出来たのは、ここから来ている。
『神功皇后 魚釣図』
月岡芳年
だな。
それにしても、神功皇后が魚釣りをしている場所…
狭い岩場で、上には松が生えている…
もしや「ターナー島」こと四十島のモデルか?
確かに似ている…
海釣りのシーンで坊っちゃんが船頭さんに「あの島の岩場から釣りたい」とお願いしたのは、この絵のことだったのかも…
これを見ろ、岡江君!
同じ月岡芳年の絵だが、こちらには「ターナー島」がモロに描かれているぞ!
『日本史略図会 第十五代神功皇后』
月岡芳年
えっ?
ほら…
あの神功皇后を「ターナー島」へ乗せてみると…
なんだよ、これ…
見る角度が少し違うだけで、まったく同じ風景じゃないか…
ここまで似ていると、とてもじゃないが偶然の一言では片づけられない。
おそらく漱石は、松山時代に四十島を見て、月岡芳年の描く神功皇后の絵を連想したのだろう。
ヤバいね漱石。よくこれに気付いたな。
うむ。やはり天才は目の付け所が違う。
では最後に「武内宿禰(たけうちのすくね)」だ。
武内の宿禰は、神功皇后の右腕として大活躍した英雄か…
さっきの月岡芳年の『魚釣図』でも、神功皇后の隣に描かれてたな…
『神功皇后と武内宿禰』
歌川国貞
こっちの絵を見たまえ。
また『坊っちゃん』だ。
『芳年武者无類 大臣武内宿祢』
月岡芳年
この武内宿禰は、釜湯の中に足を突っ込んで、何を騒いでいるんだ?
ダチョウ倶楽部の上島竜兵か?
ははは。確かにそう見えないこともない。
実際、武内宿禰は「熱湯コマーシャル」の元祖みたいな存在らしいぞ。
どういうこと?
ここにある解説を読んでみたまえ。
『日本書紀』によると、記録に残っている日本最古の「盟神探湯(くかたち)」、つまり日本で最初の「誓湯」をした人物が武内宿禰だそうだ。
どれどれ…
「盟神探湯・誓湯」とは、神に宣誓をした後に熱湯の中へ身体を入れて、その人の正邪を占うもの…
正しい心をもつ者は、神の御加護を得て、まるで水の中にいるかの如く、釜の中で長時間過ごすことが出来る…
しかし、よこしまな心を持つ者は、神の御加護を得られず、すぐに釜から飛び出てしまったり、火傷を負ってしまう…
まさに「熱湯コマーシャル」だろ?
結局のところ気合や覚悟が結果を左右するのも一緒だ。
この「誓湯」で身の潔白を証明した武内宿禰も、神の御加護というよりは、気合と根性で乗り越えたに違いない。
月岡芳年の描いた武内宿禰の表情は、それを物語っている。
ん? よく見ろよクリス君。
武内宿禰は黒髭じゃなくて白髭の方らしいぞ。
え?
悲鳴をあげている人に容赦なく対応している白装束の男が武内宿禰だ。
熱湯コマーシャルの審判員ガダルカナル・タカの白シャツに黒い蝶ネクタイという服装は、武内宿禰を表していたのか…
これは失礼した。僕の早とちりだったな。
だが実際問題、気合と覚悟が運命の分かれ道だったらしいぞ。
偽りの宣誓をした者は、熱湯に身体を入れる前に怖気づいてしまい、そこで勝負が決まることがほとんどだったと書いてある。
まあ、そうだろうな。
何かあるごとにこんな野蛮な方法でジャッジしてたら、みんな火傷だらけになってしまう。
元々は「透明な湯」ではなく「熱した泥水」だったとも書いてあるぞ。
これも「便所の地下槽で糞尿まみれになった壱円札」に通じる。
こっちの絵は、何だろう?
武内宿禰が幼子を抱いているぞ…
神功皇后の子で、幼帝だった応神天皇を抱く武内宿禰像…
つまり、坊っちゃんの血筋「清和源氏」の守護神「八幡様」を抱く武内宿禰だな。
『幼帝(応神天皇)と武内宿禰』
歌川国芳
なぜ武内宿禰は幼帝を抱いているんだろう?
えーと、この絵の背景は…
都でクーデター騒ぎが起き、まだ幼子だった応神天皇の命が狙われた…
そこで、母の神功皇后は武内宿禰に幼帝を抱かせ、都から脱出して魔の手を逃れた…
なるほどね。
新しい王が生まれると権力争いが起きるのは、洋の東西を問わないな。
ん? 今何と言った?
新しい王が生まれると権力争いが起きるのは、洋の東西を問わない…
それだ…
は?
漱石は、海釣りの場面で「野だ」にこう言わせた…
ターナー島の岩の上に「ラフハエルのマドンナ」を置いたら似合うだろうと…
歌川国芳の『幼帝を抱く武内宿禰』は「ラファエロのマドンナ」そっくりだ!
『システィナの聖母(マドンナ)』
ラファエロ・サンティ
ああっ!
しかも、どちらもカーテンの下で「幼帝」を抱いていて…
画面左手の人物が「幼帝」を下から見上げ、画面下には「幼帝」に無関心な2匹の羽根のついた小動物が…
「ラファエロのマドンナ」は、これだけではなかったよな…
歌川国芳の『幼帝を抱く武内宿禰』は、こちらの「ラファエロのマドンナ」にも、よく似ている…
『牧場の聖母(マドンナ)』
ラファエロ・サンティ
ああっ!
「長い棒の先に何かがついた玩具」を見せびらかす年上の子と、それに反応する幼帝!
そして、この「ラファエロのマドンナ」も…
『ヒワの聖母(マドンナ)』ラファエロ・サンツィオ
ああっ!小鳥!
間違いなく漱石は「幼帝を抱く武内宿禰」から「ラファエロのマドンナ」をイメージしている…
「神功皇后と武内宿禰の磯釣り」から「ターナー島」をイメージしたように…
うん… 間違いないね…
僕たちは、とんでもないものを見つけてしまった…
どうしよう…
まだまだこんなもんじゃないだろう…
漱石が『坊っちゃん』に仕込んだトリックは…
おそらく僕らはまだ入り口に立ったに過ぎない…
そうだね…
まだ第二章が始まったばかり…
心して掛かろう…
うむ。一瞬たりとも気を緩めるなよ。
それでは続きを見ていくぞ…
つづく
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?