シン・日曜美術館『ゴジラ 神曲 春と修羅』5
前回はコチラ
1989年5月某日(日曜)
深読み探偵学校
それでは賢治が見たトシの姿も妄想だったと?
ダンテが見たベアトリーチェも妄想の産物?
当たり前でしょう!これらは創作物です!
いくら何でも現実と虚構の区別くらいはつきますよ!
ずいぶんと疑り深い性格なのですね、あなたは…
それでは『不貪慾戒(ふとんよくかい)』の、次の心象はどうでしょう?
粗剛なオリザサチバといふ植物の人工群落が
タアナアさへもほしがりさうな
上等のさらどの色になつてゐることは
慈雲尊者(じうんそんじや)にしたがへば
不貪慾戒(ふとんよくかい)のすがたです
これはオリザサチバとターナーの心象…
折笹千葉とターナー?
それはティナ・ターナー!
賢治が言っているのはJMWターナー!
ロンドン生まれのイギリス人画家、ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーだ!
Joseph Mallord William Turner
(1775-1851)
まあ落ち着けよクリス君。冗談だってば。ターナーくらい知ってるよ。
それに「オリザサチバ」は「折笹千葉」ではなく「Oryza sativa」と書く!
ラテン語の学名で「栽培されるイネ科植物」という意味!
つまり「オコメ」が成る「稲」のことだ!
お米の稲?
それなら「オリザサチバ」じゃなくて「稲」って言えばいいのに。
「粗剛なオリザサチバといふ植物の人工群落」なんて、わざわざ学者みたいな小難しい言い回しをしてさ…
賢治はこれをカッコいいと思っていたんだろうか?
「尖った葉の稲がなる田んぼ」で十分だよ。
それでは賢治の心象が伝わりませんね。
わざとツウぶって「片仮名」の専門用語を使い、知識をひけらかす嫌味な感じを、賢治は読み手に持たせたかったのです。
は? わざとツウぶったり嫌味な印象を?
まだ気付きませんか?
この後に来るコーラスのような合いの手には、こう書かれています。
(ちらけろちらけろ 四十雀(しじふから)
そのときの高等遊民は
いましつかりした執政官だ)
以前は高等遊民、つまり高学歴の無職だったが、今は偉い執政官になった…
これは当時の日本における農学系エリート校だった盛岡高等農林学校を卒業してから定職に就かず自分探しをしていた宮澤賢治が、妹トシの病気をきっかけに稗貫郡立稗貫農学校の先生となり、その後に岩手県立花巻農学校の教諭、つまり県の公職に就き、人々を指導する立場になったことを指している…
ちなみにこの年の春、賢治の親友で同じように「高等遊民」だった保阪嘉内が、数十名の部隊を統率する陸軍少尉、つまり本当に「執政官」に出世した…
おそらく賢治は、遠くへ行ってしまった保阪に少し追いついた感じもして、嬉しかったのだろう…
なるほど確かに「高等遊民が執政官に」だな。
しかし自分で言うか?
わざと横文字を使ったり知識をひけらかして嫌味な印象を抱かせ、周囲が誰かを評して言うようなことを自称する…
いったい何のために賢治はこんなことを?
すべては最愛の人トシへの想いを描くためですよ。
え?
この心象スケッチの題名は『不貪慾戒』、つまり「モノゴトに執着するべからず・何かを強く欲するべからず」でしたね。
賢治は一年前の晩秋に亡くなったトシへの執着心を捨てきれずにいました。
8月初旬に書かれた前章「オホーツク挽歌」では、樺太旅行の間ずっと、トシの幻影を追い求めていたことが赤裸々に描かれています。
おそらく賢治は、花巻に帰ってお盆を過ごしながら「これではいけない」と自戒の念を抱いたのでしょう…
そして『不貪慾戒』で始まる最終章「風景とオルゴール」を書き始めたというわけです。
前へ進むには、何かを置いていかなければならない…
しかし賢治は全然「不貪慾戒」ではなかった…
その通り。
『不貪慾戒』に描かれる心象はすべて、亡きトシへのものなのです。
この最後の部分の心象もですか?
ことことと寂しさを噴く暗い山に
防火線のひらめく灰いろなども
慈雲尊者にしたがへば
不貪慾戒のすがたです
もちろん。
そして最後の心象は『不貪慾戒』の「タネ明かし」にもなっています。
種あかし?
山火事の延焼を防ぐための「防火線」がある「ことことと寂しさを噴く暗い山」とは、『春と修羅』が書かれた3年前の1919年に噴火し、その後も小規模な水蒸気爆発を繰り返していた霊峰「岩手山」のこと…
この「岩手山」は、その美しさから「南部片富士」とも呼ばれ、中世の頃から歌に詠まれてきました。
特に「忘れられない人への想い・直接伝えることの出来ない想い」をつづった歌に…
え?
例えば、1188年に作られた『千載和歌集』の藤原顕輔の歌…
思へども いわでの山に 年を経て
朽ちや果てなん 谷の埋れ木
あなたのことを心の中で思っていても、それを言えないまま年を重ね、あの岩手山の谷の埋れ木のように、自分は朽ち果ててしまうのであろうか…
そして藤原顕輔の養子、顕昭法師の歌…
人知れぬ 涙の川の 水上は
いはでの山の 谷の下水
わたしが流している涙の理由を尋ねないでください。それは口に出せない人への想い、岩手山の谷間から流れ出る雪解け水なのです…
・・・・・
そして『新古今和歌集』(1210年)の源頼朝の歌…
みちのくの いはでしのぶは えぞしらぬ
ふみつくしてよ 壺の石ぶみ
心苦しいほどの想いを言わないでいたり我慢するのはどうなのでしょうか。ぜひ思いのたけを文章にしてください。形に残せばきっと相手にも伝わることでしょう…
さらには『続古今和歌集』(1265年)の皇后宮内侍の歌にも…
知られじな 絶えず心に かかるとも
岩手の山の 峰の白雪
あなたは知らないでしょう。絶えずわたしの心の中にあなたがいることを。なぜならこれは誰にも言えないこと、誰の目にも見えないことなのですから…
なんだか賢治のトシへの想いみたいな歌ばかりだ…
それにしてもなぜ京の都から遠く離れた岩手山が、こんなふうに詠まれるようになったんだろう?
「言葉遊び」だよ、岡江君…
「岩手」と「言わで」の「かけことば」、つまり「言わない・言えない」ということだ…
ああ、なるほど…
つまり賢治が『不貪欲戒』の最後に「岩手山」を持ってきたのは、トシに会いたいという想いを断ち切ったわけではなく、口に出していないだけだということを伝えようとしたから…
口では「不貪欲戒」と言ってるけど、本心はまだ、そうじゃないということ…
その通りです。
心象スケッチ『春と修羅』の最終章「風景とオルゴール」の第一歌『不貪慾戒』とは、断ち切りたくても断ち切れないトシへの執着心を、昔の歌人のように直接的表現を避けながら綴ったものなのです。
つまり『不貪慾戒』には「かけことば」のようなものが駆使されていると?
ずっと心にかかっている苦しい想いを、よく似た別のものに掛けて伝えるというのが「かけことば」の機能…
この「かけことば」は「掛詞」とも「懸詞」とも書きます。
つまり、そもそもが「心にかかっているもの・懸案事項」という意味合いなのですね。
この『不貪慾戒』は「トシの死んだ季節」を迎えようとしている初秋に書かれました。
ここまで言えばもう、何が「かけことば」で描かれているのか、わかりますよね?
一年前の、あの季節…
「1922年11月27日」という日付けがある3つの詩…
つまり、妹トシが亡くなる際の心象を描いた3つのスケッチ…
『永訣の朝』『松の針』そして『無声慟哭』だ…
それでは『不貪慾戒』の第一心象を、もう一度見てみましょう。
油紙を着てぬれた馬に乗り
つめたい風景のなか 暗い森のかげや
ゆるやかな環状削剥の丘 赤い萱の穂のあひだを
ゆつくりあるくといふこともいゝし
ああ… そういうことか…
だから『不貪慾戒』の冒頭は8月下旬っぽくなかったんだな…
これは賢治がトシの希望した「みぞれ」を取るために、2人が子供の頃から使っていた2つの茶碗を持って、冷たく濡れた林の中に行った時のことだ…
(あめゆじゆとてちてけんじや)
青い蓴菜(じゆんさい)のもやうのついた
これらふたつのかけた陶椀(たうわん)に
おまへがたべるあめゆきをとらうとして
わたくしはまがつたてつぱうだまのやうに
このくらいみぞれのなかに飛びだした
そして第二心象…
黒い多面角の洋傘(かうもりがさ)をひろげ
砂砂(すなさ)糖を買ひに町へ出ることも
ごく新鮮な企画である
わざわざ「砂」の字が被る「砂砂糖」という言葉を使ったのは、このためか…
トシが賢治に求めた真っ白な「あめゆじゆ」、つまり多くの水分を含んで砂利砂利した「みぞれ」のことだ…
では、次に挿入される合いの手は、何の「かけことば」か分かりますか?
(ちらけろちらけろ 四十雀)
「散らけろ散らけろ 四十雀」の「四十雀」とは「シト雀」で「トシ」のこと…
だからこれは「行ってしまえ行ってしまえ トシ」という意味…
つまり『永訣の朝』で挿入されるトシの言葉…
(Ora Orade Shitori egumo)
その通りです。
「おら おらで しとり いぐも」とは「私は私で一人行きます」という意味でしたね。
つまり「私は私で一人行きます」だから「行ってしまえ行ってしまえ トシ」ということ。
それでは第三の心象は…
粗剛なオリザサチバといふ植物の人工群落が
タアナアさへもほしがりさうな
上等のさらどの色になつてゐることは
慈雲尊者(じうんそんじや)にしたがへば
不貪慾戒(ふとんよくかい)のすがたです
これは「みぞれ」と共に賢治が取ってきた「松の枝」のことだな…
新鮮なサラダのように、瑞々しい緑色をした松の葉だった…
さつきのみぞれをとつてきた
あのきれいな松のえだだよ
その通り。
賢治が林の中の松の木から取ってきた枝には、鋭い針のような葉がたくさんついていました。
この松の枝を見たトシは取り憑かれたようになり、無我夢中で鋭い松葉を顔に刺します。
この様子を賢治はこう綴りました…
おお おまへはまるでとびつくやうに
そのみどりの葉にあつい頬をあてる
そんな植物性の青い針のなかに
はげしく頬を刺させることは
むさぼるやうにさへすることは
どんなにわたくしたちをおどろかすことか
そんなにまでもおまへは林へ行きたかつたのだ
おまへがあんなにねつに燃され
あせやいたみでもだえてゐるとき
わたくしは日のてるとこでたのしくはたらいたり
ほかのひとのことをかんがへながら森をあるいてゐた
⦅ああいい さつぱりした
まるで林のながさ来たよだ⦆
鳥のやうに栗鼠(りす)のやうに
おまへは林をしたつてゐた
針のような松葉で、一心不乱に激しく頬を刺しまくるトシ…
少し怖いな…
トシは死に直面してるんだぞ?
松針が顔に刺さる痛みなど、死の苦しみに比べたら…
松葉は針のように尖っていて硬い…
そして、賢治が入っていった松林とは、おそらく人工的に植林されたもの…
これを賢治は『不貪慾戒』で「粗剛なオリザサチバといふ植物の人工群落」としたわけですね。
そして「稲」ではなく「オリザサチバ」と書いたのは、ツウぶるだけではなく、「折り笹」を想起させる意図もあったかもしれません。
「折り笹」は「松葉」みたいに痛そうですから。
確かに「オリザサチバ」は、手足が切れちゃいそうな響きだ…
「折り笹、血、バー」って感じで…
そして再び賢治の声が入ります。
(ちらけろちらけろ 四十雀
そのときの高等遊民は
いましつかりした執政官だ)
高学歴の無職「高等遊民」だった賢治は、県立学校の教諭「執政官」になった…
つまり『無声慟哭』の、この部分だ…
おまへはひとりどこへ行かうとするのだ
(おら おかないふうしてらべ)
何といふあきらめたやうな悲痛なわらひやうをしながら
またわたくしのどんなちひさな表情も
けつして見遁さないやうにしながら
おまへはけなげに母に訊きくのだ
(うんにや ずゐぶん立派だぢやい
けふはほんとに立派だぢやい)
そして最後の心象…
ことことと寂しさを噴く暗い山に
防火線のひらめく灰いろなども
慈雲尊者にしたがへば
不貪慾戒のすがたです
「岩手山」は「言わで」の懸詞、つまり「想いを言わない・口に出さない」ということ…
賢治は、自分の様子が一時より沈静化しているように見えても、口に出さないだけで心の奥底ではトシへの想いがマグマのように燃えている、ということを言いたかったわけですね…
そして「防火線のひらめく灰いろ」とは…
おそらく最後に賢治がトシの乱れた頭髪を火箸で整え、綺麗に筋目を作ってあげたことを指しているのでしょう…
なんてこった…
まったく賢治は「不貪慾戒」ではない…
トシのことばかり考えてしまう自分に対し、必死に言い聞かせているだけだ…
・・・・・・
どうしたのクリス君。急に黙り込んで。
Your breath is sweet
Your eyes are like two jewels in the sky
Your back is straight, your hair is smooth
On the pillow where you lie...
へ?
確かに、似てますね。
はい…
お前の吐く息は甘く
お前の2つの目は夜空に輝く宝石のようで
横たわったお前の背中は真っ直ぐで
お前の髪は艶やかで美しい…
いったい何のこと?
ボブ・ディランのアルバム『DESIRE』の曲『One More Cup of Coffee』だよ…
歌詞が『春と修羅』とよく似ているんだ…
トシや賢治の父親は質屋、つまり商人で、浄土真宗という王国を守っていた…
賢治の妹シゲは、姉トシの未来を見て…
トシはカップにみぞれを満たしてくれと願い、賢治は眼下の林へと降りてゆく…
ええっ?
せっかくだから私が歌いましょうか…
クリス君、ギターで伴奏できる?
はい。任せてください…
木又先生…
ふぅ。素晴らしかったわクリス君。どうもありがと。
こちらこそ、ミス・キマタ…
では、次に『ゴジラ』との関係を…
ちょっと待ってください。
「タアナアさへもほしがりさうな」は?
はい?
「ターナー」はどこから来たのでしょうか?
『永訣の朝』『松の針』『無声慟哭』には、それらしきものが見当たりませんでしたよね?
『不貪慾戒』が「かけことば」で作られているなら、「ターナー」に対応するものがあるはずです。
あら… この私としたことが…
『不貪慾戒』の最重要ワードともいえる「ターナー」の存在を、すっかり忘れていました…
最重要ワード?
そういえばミス・キマタは先程、賢治が「稲」を「オリザサチバ」と書いたのは、カタカナの学名を使うことで嫌味な感じを出すためでもあったと言いましたよね?
ええ。
高学歴の無職「高等遊民」から学校の教諭「執政官」になった賢治ですからね。
そこが引っかかるのですミス・キマタ…
何だか夏目漱石の話みたいだ…
夏目漱石?
確かに「高等遊民」って漱石が言いそうな言葉だよね…
学校の教諭になるってところも『坊っちゃん』みたいだし…
その『坊っちゃん』だよ。
あの小説にも「ターナー」と「松」が出て来るんだ…
え? そうだっけ?
坊っちゃんは、赤シャツと野だいこに誘われて、船に乗って海釣りに出掛けた…
そして、沖合に浮かぶ小さな岩礁に生えている「松」を見て野だいこが「ターナーの松のようだ」と言い、「あの島をターナー島と呼びましょう」と提案する…
ああ、そんな場面があったような気がするな…
「ターナーの松」って、どんな絵なんだろう?
野だいこが言った「ターナーの松」とは『The Golden Bough』…
いわゆる『金枝』です。
『金枝』J.M.W.ターナー
きんし?
『地獄の黙示録』でマーロン・ブランド演じるカーツ大佐が読んでいたジェームズ・フレイザーの『金枝篇』のこと?
そうだ。
あのターナーの絵は、冥界に旅立とうとするアエネーアースに対し、同行を願い出たシビュラが、新しい王の印「金枝」を渡す場面を描いたもの…
シビュラが手に持っているものが、松の木から取った「金枝」ことヤドリギの枝だ。
何だか、冥界に旅立とうとするトシに賢治が渡した「松の枝」っぽくない?
うむ… 言われてみれば確かに…
そして、漱石が「ターナー島」と名付けた岩礁とは…
愛媛松山の沖合に浮かぶ「四十島(しじゅうしま)」のこと…
賢治の「ちらけろちらけろ四十雀(しじゅうから)」には、この「四十島」も掛けてありますね…
漱石は「四十島」を「ターナー島」と名付けた…
だから賢治は「四十雀」と「ターナー」を『春と修羅』に…
間違いありませんね。「四十雀」とは「トシ」であり「四十島」です。
しかし、宮澤賢治の『春と修羅』と夏目漱石の『坊っちゃん』に、いったい何の関係が?
おそらく賢治は『春と修羅』を書いている最中に、漱石の『坊っちゃん』を読んでいます…
そして、多くのインスピレーションを得た…
ほ、本当ですか!?
それでは深読みしましょう…
宮沢賢治『春と修羅』と、夏目漱石『坊っちゃん』の深すぎる関係を…
つづく
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?