シン・日曜美術館『夏目漱石の坊っちゃん』⑧
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1989年5月某日(日曜)午後
藪蔦屋
何をブツブツ言ってるんだ?
さあ『坊っちゃん』に戻るぞ。
すまんすまん。
「栗泥棒の勘太郎退治」の次の武勇伝だな…
漱石はこう続けている…
この外いたずらは大分やった。
そこは「おおいた」じゃなくて「だいぶ」と読むんだ。
「おおいたやった」じゃ関西弁だよ。
失敬失敬。日本語は難しいな。
坊っちゃんは、大工の兼公(かねこう)と肴屋(さかなや)の角(かく)と三人で、茂作(もさく)の人参畠(にんじんばたけ)で相撲を取り、畑を滅茶苦茶に荒らしたことを自慢する。
こんなことを大人になってから武勇伝として語るなんて寒すぎる。普通に犯罪だよね。
坊っちゃんは、やっぱりただのバカなんじゃないのか?
もしくは人格破綻者だ。
うむ。
おそらく坊っちゃんは、お百姓さんがどれだけの苦労をしているのか考えたことがないのだろう。
そもそも漱石がそうだったらしい。
学生時代の漱石は、田んぼの稲から米が取れると知らなかったそうだ。
だから次の武勇伝なわけか。
坊っちゃんは、古川さんちの水田の井戸に大量の石や木を投げ込み、埋めてしまうという事件を起こした。
水が止まってしまえば、田んぼの稲は枯れてしまう。
そんなことすら坊っちゃんは知らなかった。
ありえんよな。大切な井戸を埋めてしまうなんて。
これも「いたずら」というレベルを超えている。立派な犯罪行為だ。
このあとに坊っちゃんは「おやじはちっともおれを可愛がってくれなかった」なんて言うけど当然だよ。
実の兄にもしょっちゅう暴力をふるって流血させていたからね。
母親も坊っちゃんを無視して、大人しい兄ばかり可愛がっていた。
こんな理解不能の不良少年を可愛がる親はいない。
えー。失礼しますぞな、もし…
おせいさん? 僕たちは呼んでませんけど…
ははーん。読めたぞ。
また「ララバイ」のアンコールの押し売りだな。
・・・・・
おおかた、チェッカルズの『ギザギザハートの子守歌』でも歌うつもりなんだろう。
♬小っちゃな頃から悪ガキで、十五で不良と呼ばれたよ♬
♬ナイフみたいに尖っては、触る者皆、傷つけた~♬
♬あゝわかってくれとは言わないが、そんなに俺が悪いのか♬
ララバイ、ララバイ、おやすみよ…
ギザギザハートの… 子守歌…
なんだか歌詞が『坊っちゃん』っぽい…
あ、空いた瓶を下げさしてもらいますぞな、もし…
ふふふ。おせいさん、敗れたり!
それでは、失礼をば…
ちょっと可哀想だったな…
かなり歌いたそうにしてたよ、チェッカーズを…
君は甘い。柳の下に三匹目のドジョウはいないのだよ。
もうララバイは十分だ。
あっ!また「せいこ先生」のことを聞きそびれた…
チィ。次に来た時は絶対に忘れるなよ。
それでは『坊っちゃん』に戻ろう。
次は坊っちゃんの母親が亡くなる場面だね。
台所で暴れていた坊っちゃんに対して母親は「お前の顔などもう見たくない」と言い放ち、坊っちゃんは親類の家に預けられる。
その間に母親は急死…
坊っちゃんは少しも悲しむ素振りを見せず、まるで他人事のようにこう考える。
そう早く死ぬとは思わなかった。そんな大病なら、もう少し大人しくすればよかった。
異常だな…
これが実の母親に対する感情か?
こういうところが「坊っちゃんの実の母親は清さん説」の支持される要因なんだろうね。
だけど坊っちゃんは母親のみならず父親に対しても何の感情も持っていなかった。
母親が実の母でないとすれば、あの父親も実の父ではない。
しかし、その線もない。
下女に雇った没落士族の清さんの連れ子を、わざわざ養子にする必要はないからな。
あの家には、れっきとした跡継ぎ、長男がいるのだ。
つまり「坊っちゃんの実の母親は清さん説」は100%ありえない。
これは読み手の願望、そうであってほしいという妄想に過ぎん。
そして次に、坊っちゃんは兄の説明をする。
お兄さんは色白で、芝居の女形の真似がうまく、身を立てるために英語の勉強をしていた。
坊っちゃんとはまるで対照的で気が合わず、イラついた坊っちゃんはよくお兄さんに暴力をふるっていた。
そしてついにお父さんがキレて、坊っちゃんに勘当を言い渡す。
この窮地を救ってくれたのが下女の清だ。
清は主人に泣きながら詫び、その怒りを何とか収め、坊っちゃんの勘当を食い止める。
しかし薄情な坊っちゃんは、そんな清の行為に感謝するどころか気味が悪いと思っていた。
清はいつも何かにつけて坊っちゃんのことを褒め、まるで「自分の力でおれを製造して誇ってるように」見えたからだ。
この言い回しも「坊っちゃんの実の母親は清さん説」の原因のひとつだね。
だけど下女の清さんが坊っちゃんを産んだなんてことはありえない。
なぜ夏目漱石は、こんな誤解を生むようなことを、あえて書いたんだろうか?
読み手を惑わすための「誘導」だろう。
冷静に物語を読めば、何もかも異常すぎる坊っちゃんに親近感を覚えることなどない。
しかし、読み手の意識下で「坊っちゃん」と「無条件の愛を捧げる聖母 清」を一体化させることにより、異常行動の数々は不思議と浄化されてしまう。
坊っちゃんという人間の本質をすっかり忘れさせ、読後になぜか美しい物語だったように感じてしまう、おそらくそういうカラクリだ。
なるほど。深い読みだね。
この作品の本当のマドンナは清さんだもんな。
その通り。そして次の武勇伝は、坊っちゃんではなく清の武勇伝…
「財布ぼっちゃん事件」だ。
うまいこと言うね。
それにしても、あれには驚いた。いくら財布を落としても、あれをやる勇気はないな。
当時の「1円」って、今のだいたい1万円くらいだろう?
1円札3枚なら3万円だ。僕なら諦める。
ははは。君は根性がないな。
僕なら清さんみたいに何としてでも拾い上げるぞ。
君にそんな根性があるものか。
こう見えて僕は執念深いのだよ。
さてと、ちょっとトイレに行かせてもらう。
「財布ぼっちゃん事件」の続きは、しばらく待ってくれ。
15分後
おいおい。ずいぶんと遅かったじゃないか。
三ツ矢サイダーの飲み過ぎで腹でも下したか?
・・・・・・
どうしたんだ? 顔が青いぞ…
本当に具合が悪いのか?
ぼっちゃん… してしまった…
は?
ぼっちゃん便所に… 財布を… ぼっちゃんと…
ええっ!?
財布には… カードも… 入ってた…
僕の… 打ち出の小槌が…
ま、マジで!?何としてでも拾い上げろよ!
さっきはそう豪語してただろ!
無理だよ… 僕にはそんなこと無理だ…
ロンドンの父に連絡して… カードを再発行してもらえば済むことだし…
届くのはいつになるんだよ、そんなの!
今日の支払いはどうすんだ!
ここで働いて返そうか…
料理を運んだり… お客の背中を流して…
そんなの僕は嫌だよ! 学校に行けないじゃないか!
君だけそうすればいい!
な、何をォ!?図々しい奴め!
そもそも僕の金で飲み食いして、君は何とも思わないのか!
ぼ、僕は「この店は高そうだからやめよう」と言ったはずだ!
それなのに君が無理矢理…
無理矢理だと? それなら食ったものを今すぐ吐き出せ!
ああ!吐くよ!吐いてやるとも!
おえー
おやおや。そんなに大声をあげて、いったいどうなさいましたぞな、もし?
あっ、おせいさん!
実は彼が財布をトイレに落としてしまって…
あの「ぼっちゃん便所」の中にぞな、もし?
はい…
僕の財布は「ぼっちゃん」という音を残し、漆黒の闇の奥深くにある黄金色の中へと消えて行ってしまった…
あそこは黄泉の国、ブラックホールのようなところ…
一度落ちてしまったら、もう、どうすることもできない…
・・・・・
さらば、僕のスリーアミーゴス、3人の漱石よ…
さらば、僕のマスターカードよ…
わてが取り戻してあげますぞな、もし。
え? おせいさんが?
あの黄泉の国へと降りて行かれるのですか?
それは危険だ。おせいさんも二度と戻っては来れない。
行ってはいけません!
STAY。
は?
外人さんのくせに英語も知らんぞな、もし?
「ステイ」は「ここで待っとれ」という意味ぞな、もし。
・・・・・
心配は無用ぞな、もし…
必ず戻ってくると約束するぞな、もし…
30分後
遅い… 遅すぎる…
もう30年くらい待ったぞ…
大袈裟だね、君は。
もしかして、おせいさんは『坊っちゃん』の清さんみたいに、長い竹竿で一生懸命、君の財布を釣り上げようとしているのかなあ…
そんなことが可能なのだろうか…
あの黄泉の国から僕の漱石と打ち出の小槌を救い出すなんてことは…
「ガタッ」
ん? 今あそこの書棚から何かが落ちたぞ。
誰も触っていないのに…
もしかして、幽霊とか?
あ、あんなふうに危なっかしい置き方をするだからだ…
どうせ風のいたずらだろう…
「ヒュ~~~~~~」
うわっ!急にカーテンが!
窓は閉まっていたはずなのに!
ほ、ほら見ろ! さっきのは、やっぱり風の仕業だ!
「カチカチカチカチ…カチカチカチカチ…」
く、クリス君!僕の腕時計を見たまえ!
針がありえない動きをしている!
こ、壊れてるだけだろう… そんなオンボロ時計をしてるからだ…
そんなはずはない… 正確無比が売りのハミルトンなのに…
そんないい時計をしてたのか?
これを質に入れれば、ここの代金が払えるじゃないか…
絶対に何かおかしいよ…
今この部屋で、僕たちの知らない未知なる物理現象が起きているんだ…
僕はそんな超常現象など認めないぞ…
必ずカラクリがあるはず…
お待たせしましたぞな、もし。
お、おせいさん!
財布は?
無事に拾い上げたぞな、もし。
せやけど3枚の漱石センセーは、洗っても洗っても黄ばみが落ちんかったぞな、もし。
だから500円玉に両替して持って来たぞな、もし。
かたじけない…
で、命より大事なカードは?
こっちも黄ばみが取れんかったぞな、もし。
これは元々なんです!ゴールドカードですから!
ああ、よかった…
これで無銭飲食にならずにすんだ…
それでは失礼をば…
あっ、待ってください!
いったい「せいこ先生」って…
行ってしまったな。
また掛け軸のマドンナの正体を聞けなかった…
しかし妙だ…
この部屋で起きる一連の出来事は『坊っちゃん』と連動していないか?
僕が財布を便所に落とし、下女のおせいさんが拾い上げるとか…
しかも君の財布の中には紙幣が3枚入っていて…
それが硬貨に両替されて戻ってきた…
『坊っちゃん』の「財布ぼっちゃん事件」と、ほとんど同じだろう?
そうなると、僕はおせいさんに十倍にして返さなければならないのか?
そうだね。坊っちゃんは1円銀貨3枚を十倍にして返したいと言っていた。
つまり銀貨30枚を。
ん?
どうしたの?
いや、なんでもない…
たぶん僕の気のせいだろう…
変なの。
それじゃあ『坊っちゃん』第一章の続きを見ていこうか…
つづく
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