シン・日曜美術館『深読み 夏目漱石の坊っちゃん』⑰
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1989年5月某日(日曜)午後
藪蔦屋 りうていの間
まず最初に登場するのは校長。
その風貌から坊っちゃんは「狸(たぬき)」と名付けた。
「狸」は坊っちゃんに教師の任命書である辞令を渡すが、この小説が書かれている「現在」の坊っちゃんは、帰りの船でそれを海の中に捨てたと語る。
辞令って、すごく大切なものだよな?
たぶん文部大臣とか県知事のサインがあって、その人が教師であることを証明するものだ。
そんな大事なものを、帰りの船で瀬戸内海に投げ捨てたって…
後先考えずに行動してしまう坊っちゃんだから仕方がない。
さて辞令を渡した「狸」は、他の教師が集合するまで少し時間があったので、坊っちゃんに「教師論」をぶつ。
教師というのは生徒に学問を教えるだけの仕事ではなく、人の上に立つ見本のような存在でなければならず、その言動や精神で生徒を徳化していかなければならないと。
これを聞いた坊っちゃんは「そんな偉い人間が40円の月給でこんな田舎に来るか」と呆れ、割りに合わないから辞退すると言い出し「狸」を慌てさせる。
この「狸」という渾名には、どんな意味があるんだろう?
ここはシンプルに、校長が食えないタヌキ親父だからじゃないのか?
食えないタヌキ、か…
「食えるタヌキ」といえば「たぬきそば」だ。
ちょっと待て。
「たぬきそば」は「天ぷら」ではなく「油揚げ」だろ?
は? 「油揚げ」は「きつね」だよ。
おいおい、冗談は休み休みに言え。
先日、憧れの新幹線に乗って大阪へ行った時、僕はこの目で確かに見たんだ…
こんがりキツネ色の「油揚げ」が載った蕎麦「たぬきそば」を!
クリス君…
君が見た「たぬきそば」は大阪だけにしかないものだ。
「油揚げ」の載った蕎麦を「たぬきそば」と呼ぶのは大阪人だけなんだよ。
そ、そんな馬鹿な…
それでは大阪では「油揚げ」の載った「うどん」は「たぬきうどん」なのか?
いや。それは「きつねうどん」だ。
君は僕をからかっているのか?
からかってなんかいないよ。そうなんだから仕方がない。
もし僕のような外国人が初めて大阪に行って、油揚げの載った蕎麦が「たぬき」で、油揚げの載った饂飩が「きつね」だと教えられたら、「たぬき」と「きつね」の違いは麺の酒類の違い、つまり「そば」と「うどん」の別名が「たぬき」と「きつね」なのだと考えるだろう…
それでもいいのか?
まあ、そう思ってしまう人もいるかもしれないね。君みたいにモノゴトを深く考え過ぎるタイプの人は特に。
それでは聞くが、もし大阪で「天かす入り蕎麦」を食べたくなった場合は、何と言えばいいんだ?
そういう時は「ハイカラ」と言えばいい。
大阪以西では「たぬきそば」を「ハイカラ」と呼ぶ。
ハイカラ? なぜ「天かす」がハイカラなのだ?
あれはただの「揚げられた小麦粉の小さな玉」に過ぎない。
「カス」という語尾からもわかるように、お洒落なハイカラとは対極の存在。
坊っちゃんなら間違いなく「しみったれた田舎者の食い物」と言うはず!
天ぷらのタネがない状態で揚げる、つまり「空っぽで上げる」から「ハイカラ」なんじゃないのかな。
何だそれ? くだらん。
僕は東京育ちだから、よくはわからない。
ただ、蕎麦や饂飩における「たぬき」の意味は、地方によって違うということだけは確かだ。
特に西日本ではね…
中国四国地方に多い「その他」って何だ?
「油揚げ」でも「天かす」でもない「その他」が入っている「たぬき」とは?
さあ。あっちでは何か別のものを載せるんだろう。
僕はもう「たぬき」がわからなくなってきた…
「たぬき」とは、いったい何なんだ?
「たぬきそば」の「たぬき」には諸説ある。
「天かす」は天ぷらの「タネ抜き」だから「タ抜き」という説…
発祥の地である東京世田谷の「砧(きぬた)」を逆さにして「たぬき」という説…
「タネ抜き」だから「タ抜き」?
「きぬた」だから「たぬき」?
そんなふざけた言葉遊びで大事な名前が付けられたのか?
だけど名前って、そもそもが言葉遊びみたいなもんだろ?
『古事記』や『日本書紀』に出て来る昔の人の名前なんて駄洒落や語呂合わせのオンパレードだ。
武内宿禰(たけうちのすくね)の「すくね」だって元々は「少将」という意味だぞ。
少将だから、すくねー?
そういうこと。
なんてこった。日本という国は本当にミステリアスだ。
まさにエキゾチックジャパンだな。
さて『坊っちゃん』に戻るぞ。
そうこうしているうちに喇叭(らっぱ)が鳴り、「狸」に連れられて坊っちゃんが教員控所に入ると、先生たち十五人が細長い机に並んで座っていた。
坊っちゃんは一人一人の前で順番に辞令を見せて挨拶をするという儀式をさせられる。
中には余りにも恭しく対応する先生もいたので、坊っちゃんは「まるで宮芝居の真似だ」と呆れてしまう。
そして坊っちゃんは印象深かった教師に「渾名」をつける。
着物と袴にフランネルの赤いシャツという妙な格好をした教頭は「赤シャツ」…
顔が蒼くてふくれている英語教師は「うらなり」…
イガグリ坊主頭で比叡山の悪僧のような数学教師は「山嵐」…
そして、軽薄な芸人風の身なりと口調で、やたらと江戸っ子をアピールする画学の教師は「野だいこ」だ。
ちょっと待て。
「野だいこ」は、ここでは名付けられていない。
え? そうだっけ?
ほら、よく読んでみろ。
画学の教師は全く芸人風だ。べらべらした透綾(すきや)の羽織を着て、扇子をぱちつかせて、お国はどちらでげす、え? 東京? そりゃ嬉しい、お仲間が出来て……私もこれで江戸っ子ですと云った。こんなのが江戸っ子なら江戸には生れたくないもんだと心中に考えた。そのほか一人一人についてこんな事を書けばいくらでもある。しかし際限がないからやめる。
あれ?ホントだ。
いつ坊っちゃんは「野だいこ」と名付けたんだろう?
初出勤日は授業がなかったので、坊っちゃんは数学主任の山嵐と放課後に山城屋で打ち合わせをする約束をし、学校を後にした。
そして市街地を散策してから山城屋へ帰り、東京の清に手紙を書いた。
ここで初めて「のだいこ」という名が出て来る。
「きのう着いた。つまらん所だ。十五畳の座敷に寝ている。宿屋へ茶代を五円やった。かみさんが頭を板の間へすりつけた。夕べは寝られなかった。清が笹飴を笹ごと食う夢を見た。来年の夏は帰る。今日学校へ行ってみんなにあだなをつけてやった。校長は狸、教頭は赤シャツ、英語の教師はうらなり、数学は山嵐、画学はのだいこ。今にいろいろな事を書いてやる。さようなら」
あれ?
坊っちゃんは「今日学校へ行ってみんなにあだなをつけてやった」と書いてるけど、「のだいこ」は学校の場面で名付けられていない…
漱石は何か勘違いしてたのか?
もし仮に漱石のミスだとしたら、担当編集者の高浜虚子が指摘するだろう。
あの挨拶シーンに「まるで太鼓持ち、のだいこだ」と入れれば済むことなのだから。
しかし、そうはせず、このまま発表された…
なんか意味あるのかな…
しかも坊っちゃんは自分で「のだいこ」と名付けたくせに、「のだいこ」を「のだいこ」と呼ばずに「野だ」と呼ぶ。
なぜか彼だけ渾名が2つあるみたいになってた。
うーむ。確かにそうだったな。
これも漱石の書き間違いと高浜虚子の見落としか?
それに、あの清さんへの手紙も変だよ。
漱石はこんな風に説明していたけど…
おれは文章がまずい上に字を知らないから手紙を書くのが大嫌いだ。またやる所もない。しかし清は心配しているだろう。難船して死にやしないかなどと思っちゃ困るから、奮発して長いのを書いてやった。その文句はこうである。
確かに変だ。
たかだか瀬戸内海を渡るだけなのに「難船して死にやしないかなどと思っちゃ困る」とは大袈裟すぎる。
しかも、あの程度の内容で「奮発して長いのを書いてやった」とドヤ顔するなんてアホとしか言いようがない。
まるで池乃めだかのギャグ「よっしゃ、今日はこれぐらいにしといたるわ」だ。
『坊っちゃん』はオカシナことだらけだな。
語り口が軽妙だから、ついつい騙されてしまうけど…
えー。失礼しますぞな、もし。
あ、おせいさん。何の用件ですか?
あんたら迷子を見かけんかったぞな、もし?
迷子? いえ。見てませんけど。
あの赤い前掛けをした大きな座敷童のことか?
そうじゃないぞな、もし。
先っちょがクルっとカーブした立派な鼻髭の男ぞな、もし。
『ひょっこりひょうたん島』のドン・ガバチョ風の…
ドン・ガバチョ風の鼻ヒゲの男?
年は五十後半くらい…
口癖が「きょっちゅねー」ぞな、もし。
は?
もしかして、その人は…
「キヨッソーネ」という名前では?
そうそう。そのキヨッソーネぞな、もし。
まったく困ったもんぞな、もし。
何遍教えてもこの家の構造を覚えられんで、いっつも部屋を間違えるぞな、もし…
お、おせいさん! キヨッソーネ先生は、この蕎麦屋の常連なのですか?
常連ちゅうか、わての甥っ子ぞな、もし。
おい?
お言葉ですが、おせいさん…
彼はどう見てもイタリア人にしか見えませんでしたが…
義理の甥ぞな、もし。
イタリアから日本に来て、わての姪の亭主になったぞな、もし。
なんてこった…
僕が心の師と仰ぐキヨッソーネ先生とおせいさんが親類縁者だったとは…
これからは伯母上様とお呼びしなければ…
そんな堅っ苦しい呼び方はせんでもええぞな、もし。
今まで通り「おせいさん」でええぞな、もし。
ところで、今回の用件はそれだけですか?
その手に持っているのは?
ああ、これ?
マイクぞな、もし。
マイク? また「ララバイ」の押し売りか?
もうそのパターンは読めていると言っただろう。
岩崎宏美の『聖母(マドンナ)たちのララバイ』の次は…
♬トォキヨゥの~夜明け~に~歌う~子守唄~♬
内藤やす子の『六本木ララバイ』だ!
ぶっぶうー。違うぞな、もし。
じゃあ何だ?『ハイスクールララバイ』か?
「ララバイ」というより「聖母(マドンナ)」つながりぞな、もし。
聖母つながり? 何だそれは?
ヒントをくれ。
別れはひとつの旅立ち…
SAYONARA…
ぞな、もし。
ははーん。わかったぞ。
映画『さよなら銀河鉄道999 アンドロメダ終着駅』の主題歌…
メアリー・マクレガーの『SAYONARA』だ!
アハハハハ。ほんにそそっかしいお人ぞな、もし。
「別れはひとつの旅立ち」と「SAYONARA」といえば…
この歌ぞな、もし…
つづく
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