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歳時記を旅する38〔五月〕中*初夏や漢字の中の中華街

佐野  聰
 (平成五年作、『春日』) 
幕末、一八五九年に横浜の港が開かれた頃、港町横浜には世界各地の人々が訪れ、中国の広東・上海などからも大勢の人がやってきた。
開港当時西洋人は日本語がわからず、日本人は西洋の言葉や商売についてほとんど知識がなかった。
一方、香港・広東・上海の西洋商館で働いていた中国人は西洋の言葉が話せ、また日本とは漢字で筆談ができた。
そのため中国人が西洋人と日本人のあいだに立ち、生糸や茶の貿易で仲介者の役割を果たした。(横浜中華街HP)
ここに住む中国人は自分の街を唐人街「トンエンカイ」と呼んだ。
日本人はおしゃれな中国人を「南京さん」、その街を南京町と呼んだ。
昭和三十年に中華街と改名された後でも、元町の親戚は中華街と言わずに南京町と言っていた。
句は、今日の国際都市横浜の発展の始まりは、漢字が重要な役割を果たしてきたことを思い直させる。

(岡田 耕)

(俳句雑誌『風友』令和五年五月号「風の軌跡ー重次俳句の系譜ー」)

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