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「春昼」という季語

【御礼】記事「歳時記を旅する〔春昼〕後*春昼の鯉ゆつたりと水を練る」にうれしいお知らせをいただきました。(末尾掲載)


泉鏡花の小説『春昼』は、中唐の時代の詩人 李賀の詩「宮娃歌」が引用されています。小説には、引用された詩だけでなく、李賀の詩のイメージや語句の影響を受けているのではないかという研究がされています。
小説の冒頭の部分に、その例が早速表れています。
李賀の詩「将進酒」と語句が類似している箇所があります。

「おじいさん、お爺さん。」
「はあ、わしけえ。」
 と、一言ひとことぐ応じたのも、四辺あたりが静かでには誰もいなかった所為せいであろう。そうでないと、そのしわだらけなひたいに、顱巻はちまきゆるくしたのに、ほかほかと春の日がさして、とろりと酔ったような顔色がんしょくで、長閑のどかにくわを使う様子が――あのまたその下のやわらかな土に、しっとりと汗ばみそうな、散りこぼれたらくれないの夕陽の中に、ひらひらとはいってきそうな――あたたかももの花を、燃え立つばかりゆすぶってしきりさえずっている鳥のこそ、何か話をするように聞こうけれども、人の声を耳にして、それが自分を呼ぶのだとは、急に心付こころづきそうもない、恍惚うっとりとした形であった。

泉鏡花『春昼・春昼後刻』岩波文庫 1987年

桃の花の散る春の夕暮れに、「とろりと酔ったような」爺さんに話しかける場面です。
一方、李賀の詩では、

  将進酒  李賀

琉璃鍾        
琥珀濃        
小槽酒滴眞珠紅    
烹龍炮鳳玉脂泣    
羅幃繍幕囲香風    
吹龍笛
撃鼉鼓
細腰舞
況是青春日將暮
桃花乱落如紅雨
勧君終日酩酊醉

酒不到劉伶墳上土

瑠璃の杯
琥珀がとろり
小さな桶から滴る酒は〈真珠紅〉
龍を煮 鳳を包み焼きして 玉の脂が泣いている
薄絹のとばり 刺繍した幕 香しい風を囲んで
龍笛を吹き
鼉鼓うち
皓歯 歌い
細腰舞う
ましてや 春の 日がいまや暮れようとして
桃の花 乱れ落ち 紅の雨とふるのだ
さあ一杯 君よ終日 酩酊し 酔いたまえ

酒は来ませぬ 死ねば のんべえ劉伶の墳墓にだって

原田憲雄『李賀歌詩編3ーーー北中寒』東洋文庫 1999年

第十句以降で、桃の花が乱れ散る春の夕暮れに、「君」に対して酔うように酒を勧めています。

李賀の詩には、このほかに春のけだるく物憂い春の気分を詠んだ「春昼」があります。小説にも詩にも共通して機を織る女性が出てきます。
泉鏡花の小説のタイトルが同名なのも、少なからず李賀の詩を意識したものと考えるのが自然です。

歳時記では、ほかの季節、夏、冬は昼を季語とせず、秋は「秋の昼」がありますが、漢語で春昼〈シュンチュウ〉と音読みするのは春だけです。

鏡花の「春昼(シュンチュウ)」が発表されたのが明治三十九年。「春昼(シュンチュウ)が季語として成立したのが大正以降とのことです。

春昼という季語になる言葉が中国からやってきたというよりも、春の昼がけだるく物憂い気分であることは誰もが昔から共通で、それをぴたりと言い当てる言葉を、俳諧はずっと探していたと考えるのがよいのかもしれません。

泉鏡花「春昼」の文章に登場する植物の一つ一つを、まついあけみ/植物画家 さんがイラストにされています。その一部、小説の冒頭の部分に登場する桃の花の記事をご紹介します。

(岡田 耕)

*参考文献
山崎みどり「泉鏡花「春昼」と李賀―李賀詩愛好の系譜ー」
『日本大歳時記』講談社 1983年

写真/岡田 耕
    岩殿寺(泉鏡花が住職と交流があったとされる。小説「春昼」の舞台)2022年4月撮影



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