俳諧としての映画「巴里祭」
【スキ御礼】季語になった映画「巴里祭」
物理学者で俳人の寺田寅彦は、フランス人には俳諧があるという。
その例にフランスの映画「巴里祭」を挙げている。
その物語はこうだ。
この映画「巴里祭」について寺田寅彦こう言う。
この巴里祭の「妙味」と同様であるという俳諧の味はどんな味なのだろうか。
そのヒントは、その寺田寅彦の文の中にある。
「猿蓑」も「炭俵」も、芭蕉晩年の俳風である「かるみ」の代表的な選集である。これもまたナンセンス芸術であるというのである。
では、その「かるみ」とは何か。
蕉門の芭蕉の弟子の許六(きょりく)が「言葉にも筆にものべがたき所に、ゑもいはれぬ面白所(おもしろきところ)あるを、かるしとはいふ也(なり)」(俳諧問答)といっているように、その意味内容を的確に表現することは、芭蕉の門下生であっても困難であったようである。
俳人 長谷川櫂の文献に「かるみ」に触れている箇所がある。そこで理解するしかない。
ということは、寺田寅彦のいう「味」とは、「かるみ」のことであり、「かるみ」とは、「嘆きから笑いへの人生観の転換」だということになる。
映画「巴里祭」が季語になったのは、甘美な恋愛物語を通してのフランスへの憧れだと思っていたがそれだけではないかもしれない。
映画が上映されていた当時の俳人たちは、その映画のナンセンスと言われるところに俳諧の「かるみ」を無意識ながらも感じていて、日本の俳句に溶け込める親しさを許容したのではないだろうか。
これが例えば、理屈を詰めていくドイツ映画だったら季語になっただろうか、などとも考えるのである。
寺田寅彦も芭蕉の弟子の許六も言葉で説明できなかった、この映画の「俳諧と同様の妙味」。私なりの理解で句にしてみた。
いかがだろうか。
戸の隙に女の手出て巴里祭 耕
☆映画『Quatorze Juillet(巴里祭)』の主題歌「A Paris dans chaque faubourg(巴里恋しや)」を ai さんが紹介されています。歌詞も日本語訳も書かれています。
(岡田 耕)
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