【昭和3年】聡明に、全体があかるくなつて来た、銀座を歩く女の姿。/花岡謙二

聡明に、全体があかるくなつて来た、銀座を歩く女の姿。
花岡謙二(明治20年-昭和43年)『歪められた顔』(昭和3年)

『昭和萬葉集』第一巻(昭和55年)所収の一首です。「モダン・ニッポン」の節に収められています。同書に載る原田勝正氏の解説によると、〈近代化の一つの到達点〉となったこの時期、〈関東大震災以後の都市近代化、女性の職業進出〉にともなって、〈明治の「ハイカラ」がすたれ、「モダン」「スマート」が流行のひとつの基準となってき〉ていました。そのモダン時代の繁華街の代表格だったのが銀座です。『大衆文化事典』(平成6年)の「銀座」の項目(執筆は吉見俊哉氏)によると、そもそも銀座が流行の舞台となったのは明治期のこと。明治5年の大火を経て煉瓦街となった銀座は、その壮観が喧伝され、また鉄道・外国人居留地との近さから、舶来品店の集まる場所となってゆきました。震災後の復興も早く、折しも発展しはじめる百貨店やカフェーの進出も相次いでいます。そうして昭和初年代にはモボ・モガの闊歩する都市空間となっていたのでした。

掲出歌の「銀座」とは、そのような時代の「銀座」です。戦前期の社会状況としては、まさにもっとも「明る」い時代でした。「銀座を歩く女」は、当時の流行後でいうところの「銀ブラ」する「モガ」でしょう。当時の都市表象がちりばめられた歌です。しかし、歌意や修辞を吟味してゆくにはいささか骨が折れます。とりわけ口語体で詠まれている点は無視できません。まずは作者の伝記的情報を押さえておく必要がありそうです。

花岡謙二は『詩歌』『芸術と自由』『短歌創造』で活動した歌人で、また詩人としては『民衆』『新詩人』に参加していました。大正期には山村暮鳥と交流を深めています。

なかなか情報が出ていない作者なのですが、20代前半にあたる明治44年には花岡謙二名義で合同家集『白昼』(湘南文学会)を編んでいます。読んでみますと、『湘南の海』という短歌同人誌があったらしく、その休刊をうけて発行された小冊子のようです。謙二という名前の作者の歌がなく、花岡春水という作者が10首寄せているのは、おそらく謙二と同一人物なのでしょう。〈いぎたなく漁師の妻が昼寝する家のうしろにかがやける海〉といった文語定型の歌が出ています。

詩を書くようになったのはおそらく大正期で、詩話会編『日本詩集 大正8年』(新潮社、大正8年)や古屋利之編『現代田園文学新選』(大同館書店、大正14年)に詩作品が載っています。また大正15年には山村暮鳥の没後詩集『月夜の牡丹』(紅玉堂書店)の跋文も書いています。

歌人としては、前田夕暮主宰の『詩歌』から実質的なキャリアがはじまります。管見の限りでは大正6年頃から誌面に名前が見いだせました。いつごろから口語短歌を制作するようになったのかは推定できていないのですが、当該歌を収める『歪められた顔』(昭和3年)を実見しますと、すべて口語歌になっています。自序に「最近三年間」の作品を収めたと述べられているのは重要で、というのも前田夕暮がいっときやめていた『詩歌』を復刊して口語自由律短歌を試みはじめるのがまさに昭和3年ですから、花岡はそれに先んじて口語短歌に参入していたことになります。自序をさらに詳しくみてゆくと、歌壇に対する批判が展開されています。

いまの歌壇は十年一日、否百年千年一日、ぬばたまのけるかもでなければ夜も日も明けない世界である。
(太字箇所は原文では傍点――稿者)

それに反発して口語短歌をやる一群が出てきて、「新短歌協会」とうのを旗揚げしたから自分もそこに入った、という話になっています。新短歌協会は大正15年に、当時の口語陣営が結集して作った協会です。そもそも口語短歌というものは、ともすれば昭和末期に俵万智がいきなり出てきたというような誤解もあるようなのですが、明治後期からすでに言文一致運動と共鳴する形で出現しています。その頃の生き残りから大正後期の若手にいたるまで、口語でやってみようという歌人がぼちぼち出てきて運動化するにいたっていたわけです。

さて、『歪められた顔』を読んでみますと、まず驚かされるのは、『昭和萬葉集』に収められている姿とは違う、ということです。原典ではこういう形になっています。

聡明に、
全体があかるくなつて来た、
銀座を歩く女の姿。

三行の分かち書きなんですね。全首がそうなっています。句読点の使用も同様です。これらは石川啄木の影響といってよいのではないでしょうか。また、韻律についていうと、当該歌は第二句が九音の破調になっていますが、基本的には定型の韻律に近いといえます。これもまた他の歌と同様です。したがってこの歌集において自由律という意識はなかったと見てよさそうです。こういうことは、歌集で他の歌と比べてみないとわからないですね。一首だけ見ても、たまたま定型に近くなっているだけで他の歌はゴリゴリの自由律、みたいなこともありえますから……。ゴリゴリの自由律というのは前田夕暮の〈自然がずんずん体のなかを通過するーー山、山、山〉(『水源地帯』白日社、昭和7年)あたりをイメージして言っています。

ただし、昭和5年に鳴海要吉が執筆した『初めて学ぶ人の口語歌作法』(先進堂書店)の中で花岡の代表作として挙げられている歌は、〈行く手の暗礁が気になつてならない船長大丈夫ですか〉など、いずれも自由律になっています。『歪められた顔』以後に自由律を試作したという感じでしょうか。

この『初めて学ぶ人の口語歌作法』を執筆した鳴海要吉は、口語短歌の第一人者です。同書は口語短歌の思想や理論を平易に解説した一書で、未読の方はぜひ読んでいただきたい。デジコレで全文読めます。

鳴海要吉は論作ともにクレバーで大変面白いので、もっと読まれてほしいですね。2009年に青森県近代文学館で没後50年展をやった折のパンフレット類が公開されていますので、ご興味のある方はぜひ。

この『初めて学ぶ人の口語歌作法』を貫いている鳴海の口語短歌の理解は、ざっとまとめると、定型だろうが自由律だろうがどちらでもいいが、韻律よりも意味が優位となるべき文学が口語短歌だ、といったところです。彼は、歌作にあたって句読点を打ったり改行してみたりすることを提案するのですが、〈意味の分り憎いところで句読点でも打つて置くだけでよいものなのです〉(p5)というふうに、読者に意味が通るかどうかが主眼になっています。また、音読の際には、韻律にあわせて五七五七七の切れ目で拍をおくのではなく、言葉が自然に切れるところで切ってよむことが推奨されています(これを彼は〈文句に人の方が読まれる形になつて行く〉(p6)という言い方で説明しています)。

花岡の『歪められた顔』が収める短歌の大部分も、自然な切れ目で句読点を打ち、そこで改行しています。改行しない句読点にも、歌意を混乱させるものはほとんどありません。句読点や改行によって、散文的な意味から飛躍したり視覚的効果を狙ったりする意図も見られないのです。たとえば集中の歌はこのようなものです。

紺碧の、
海をうしろにかけあがる、
日があたってる暮鳥の家だ。

「磯浜行 十三年の初冬、病詩人暮鳥を見舞ふ――」(9首)
冬だのに、額に汗が滲むでゐた。
あたたかい日だな。
あたたかい家だな。

同前
きのふ四本、
けさは三本もぎました。
朝つゆのなかのあはい胡瓜を。
「小さい農場に立つて」(7首)

とすれば、ここで問題となるのは、掲出歌「聡明に、/全体があかるくなつて来た、/銀座を歩く女の姿。」の歌意がほかの歌に比して難解に過ぎる、ということなのです。「聡明に」は形容動詞「聡明なり」(「物事の理解が早く、道理に通じていること」『日本国語大辞典 第二版』)の連用形です。「聡明に(してください)」という命令の語法ではないでしょうから、副詞と理解するほかないのですが、「あかるくなつて来た」にかかるのか、「歩く」にかかるのか。

「聡明」が何者かの知性を形容する語であることを考えると、「女」と関連しているようにも見えますが、そうすると「全体があかるくなつて来た」が宙ぶらりんになってしまいます。可読性の高さを志向するこの歌集の傾向からいうと、「聡明に」は「あかるくなつて来た」にかかっている可能性が高いと思います。「明」の字と「あかるく」が共通していることも意味ありげです。しかし、そうすると二行目が句点ではなく読点になっているのが不審です。この歌集では、句切れの箇所には句点を用いているからです。しかし、句切れナシとして読もうとすると、今度は「あかるくなつて来た」が「銀座」にかかることになり、二行目に読点が打ってある意図が分からなくなります。

解釈上の問題はまだあります。「全体があかるくな」るというのが抽象的なのです。露風や白秋の影響でも受けた象徴詩人だというならそれでもいいのですが、暮鳥と仲良しの田園詩人ですから、奇異な印象は否めません。

もっとも、まったくもって難解で近づきがたいという質の歌ではありません。「聡明に」というのは「銀座」という表象の連想からいって「文化的に」というイメージで読み解けそうです。当世風の衣服を着込んで闊歩するモガに、この街の文化の高さを看取し、大震災以後、早々と復興をとげたのみならず、ますます賑わってゆく銀座の空気を描いてみせた歌でしょう。「銀座」という街そのものが生動し、あたかもモガのごとく「聡明に」なりつつあるのです。

繰り返しますが、問題は、この歌だけが文体的に異質であることです。先に引いた三首をごらんいただくとよくわかりますが、この時期の花岡の歌は、ごく平易な文体です。かつ、暮鳥の代表的詩集『雲』と兄弟であるかのような、素朴な自然賛歌が多いのです。この詩人は、自然をうたうとどうしてもほがらかになるし、本人もそれが本領だと自覚していたはずです。なにせ死にそうな(そして事実、そのあとすぐ死ぬ)暮鳥を見舞って、「あたたかい日だな。」なのです。しかし、歌集を読んでいると、彼の生活がその種の理想から乖離している苦悩が窺えます。

どこへ行つても、
金の貰へぬいやな日だ、
亡霊のやうに銀座を歩く。

「A社で」(3首)
原稿を、
ふところにして雑誌社を、
たづねてまはる、街ははつふゆ。

「枯れ草の上」(6首)

売文業で暮らしていけないかと模索しながらも、それが叶えられないでいたらしいのですね。他の歌を見ても、いつも金に困っていたようです。自然の歌がどれもほがらかなのに対して、都市の歌になると途端にこの調子です。

合服のポケットから出た、
昨年の、
明立二回戦の招待券が一枚。

「ある時」(1首)

「合服」とは夏着でも冬着でもない春秋の服。「明立二回戦」は六大学野球の、明治大と立教大の対戦のことです。とっくに終わった試合に、ああ行かなかったなあとあわれを覚えているわけで、当時のスポーツ文化の花形である六大学野球を詠んでさえこの暗さになってしまう。

彼にとって都市とは、自分の生活の不満と紐付いてしまって「亡霊のやうに」歩かざるを得ない土地でした。当該の「聡明に、」の歌は、「銀座で」という二首の小連作のうちの二首目なのですが、一首目はこんな歌です。

松屋へ、松屋へ、
吸はれるやうに這入つて行く、
みんな買物があるのか、この人達は。

「銀座で」(2首)

「松屋」とは銀座で三越と肩を並べた百貨店です。百貨店は、あらゆる商品を、いつでも手に取って吟味することのできる祝祭空間。この歌には、使うべき金を持たない貧乏人の羨望があり、さらには、本当に欲しいものなんてない者たちが百貨店という装置に組み込まれて消費社会に動員されているのではないか、という批判的なまなざしも読み取れそうです。

こうしてみると、「聡明に、/全体があかるくなつて来た、/銀座を歩く女の姿。」の歌は、必ずしも純朴な銀座賛歌ではないということになりましょう。都市文化を謳歌する「女」への冷めたまなざしが発見できるのです。そして、この奇妙な文体が、田園を夢見ながらも不遇と貧乏のなかで鬱屈してゆく都市生活者の心性に要請されたものなのではないか、ということも想像されます。

よりにもよってこの歌を入集させた『昭和萬葉集』、さすがというべきか、どういうつもりだ! というべきか、悩ましいところです。

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